お前と同じだよ」
「ふうん。私と同じ――か」
私と同じ。
戦場ヶ原はその言葉を反復する。
「偶然なんて、つまりはそんなものかしらね――重なるときには重なるものだわ。羽川さん、何か言っていた?」
「何かって?」
「何か」
「……いや、別に。一言二言……で、八九寺の頭を撫でて、図書館……いや、図書館じゃなかったか、とにかく、どっか行っちゃったよ」
「頭を撫でて――ね。ふうん。そっか。……まあ、羽川さんなら――そうなのかな?」
「? 子供好きってことか? お前と違って」
「羽川さんと私とが違うというのは、そう、確かでしょうね。そう、同じではない。同じではない――では、ちょっと失礼するわよ、阿良々木くん」
言って、戦場ヶ原は、僕の顔に自分の顔を寄せてくる。何をする気なのかと思ったが、どうやら、僕の匂いを嗅《か》いでいるようだった。いや、僕のじゃなくて――多分……。
「ふむ」
離れる。
「別にラブシーンを演じていたというわけではなさそうね」
「……なに? 僕が羽川と抱き合ってたかどうかをチェックしたのか? 匂いの強弱まで判断できるのかよ……すげえな、お前」
「それだけではないわ。これで私は阿良々木くんの匂いも憶えたのよ。阿良々木くんの行動はこれから逐一《ちくいち》、私に監視されていると思うべきだと、忠告だけはしておきましょう」
「普通にやだな、それ……」
まあ、そうは言っても、通常の人間がそこまでできるとは思えないので、戦場ヶ原が一般よりも嗅覚《きゅうかく》が優れているというのが、ここでの事実なのだろうけれど。ん……しかし、八九寺と、戦場ヶ原がいない間に二度ほど取っ組み合いを演じたけれど、その際、八九寺の匂いは、僕の身体に移っていないものなのだろうか? そんなことはいちいち言わないのだろうか。一回目、戦場ヶ原の見ている前でやったときのと、混ざってしまっているのか……それとも、八九寺は無臭のシャンプーを使っているのかもしれない。まあ、どうでもいい話だろう。
「で、忍野から話、聞いてきたんだろ? 戦場ヶ原。早く教えてくれよ、どうすれば、こいつを目的地まで連れて行くことができるんだ?」
忍野の言葉が、実のところ、ずっと僕の内側に張り付いていた――ツンデレちゃん、つまり戦場ヶ原が、それを素直に教えてくれればいいけどね、というあれである。
もっとも――と、そう言っていた。
だから、自然、戦場ヶ原を急《せ》かすみたいな訊きかたになってしまった――八九寺も、心配そうに、戦場ヶ原のことを見上げている。
そして果たして戦場ヶ原は、
「逆だそうよ」
と、言った。
「阿良々木くん。私はどうやら、阿良々木くんに謝らなければいけないそうよ――忍野さんに、そう言われてしまったわ」
「は? あ、なんだ、途中から話題が変わってるのか? お前の話題転換方向修正は、本当に手際がいいよな。逆? 謝らなければならないこと?」
「忍野さんの言葉を借りると」
戦場ヶ原は、構わずに続ける。
「正しい事実が一つあったとして――それを二つの視点から観察したとき、違う結果が出たとする。そのとき、どちらの視点が正しいかを判断する方法は、本来ない――自分の正しさを証明する方法なんて、この世にはないのだと」
「…………」
「でも、だからって、自分が間違っていると決めつけるのも同じくらい違う――んだって。本当、あの人は……見透かしたことを言うわよね」
嫌いだわ。
そう言った。
「いや……何言ってんだ? お前。いや、お前じゃなくて忍野か? この状況に、そんなの、あまり関係がありそうにも思えないけれど――」
「蝸牛――迷い牛から解放される方法は、とても簡単なのだそうよ、阿良々木くん。言葉で説明すれば、とても簡単。忍野さんはこう言っていたわ――蝸牛についていくから迷うのであって、蝸牛から離れれば、迷いはない。だって」
「ついていくから――迷う?」
なんだそれ――あまりにも簡単過ぎてわからない。
言葉が足りない感じだ。それどころか、忍野にしてはいくらか的を外した言葉であるようにも思える。八九寺を見遣るが、無反応だった。しかし、戦場ヶ原の言葉が、彼女の内側で何らかの作用を起こしていることは、確かなようで――唇を、閉ざしている。
何も言わない。
「祓《はら》ったり拝《おが》んだりは必要ないということなの。取り憑いているわけでもないし、障っているわけでもない――そう。私のときの蟹と、それは同じね。そして、更に―― 蝸牛の場合、対象となっている人間の方から、怪異の方に寄っているらしいの。しかも、無意識とか前意識とかじゃない、確固たる自分の意志でね。蝸牛に自分がついていっているだけ。自分から望んで、蝸牛の後を追っているだけ。だから迷う。だから、阿良々木くんが、蝸牛から離れれば――それでいいというわけ」
「いや、僕じゃないだろ、八九寺がだよ。でも、それなら――おかしいじゃないか。八九寺は、別に自分から蝸牛についていっているわけじゃ――そんなこと、望んでるわけないじゃないか」
「だからね、逆――なのだそうよ」
戦場ヶ原の口調は普段と何も変わらない、いつもの彼女の、平坦なそれだった。そこからはどんな感情も、読み取ることはできない。
感情が顔に出ない。
ただ――機嫌は悪いように思われた。
とても悪いように思われた。
「迷い牛という怪異は、目的地に向かうのに迷う怪異ではなくて、目的地から帰るのに迷う怪異――なのだそうよ」
「か――帰るのに?」
「往路ではなく復路を封じる――そう」
行きではなく――帰り?
帰るって……どこに帰るんだ。
自分の――家?
来訪と――到着?
「え、しかし――それがどうしたってんだ? いや、話はわかるけれど、で、でも――八九寺の家は……別に八九寺は家に帰ろうとしているわけじゃないだろう? あくまで、綱手家っていう目的地に向かっているのであって――」
「だから――私はあなたに謝らなくてはならないのよ、阿良々木くん。でも、それでも、言い訳はさせて頂戴。悪気があったわけではなかったし……それに、わざとでもなかったの。私はてっきり、私が間違っているんだと思っていたのよ」
「…………」
言っていることの意味がわからない――が。
酷く意味がありそうだと――直感できた。
「だってそうでしょう? 二年以上もの間、私は普通じゃなかったんだもの。つい先週、ようやく普通に戻れたばかりなのだもの。何かあったら――私の方が間違ってると思ってしまうのも、仕方がなかったのよ」
「おい……戦場ヶ原」
「私のときの蟹と同じで――迷い牛は理由のある人の前にしか現れないそうよ。だから、阿良々木くんの前に現れたというわけ」
「……いや、だから、蝸牛が現れたのは、僕の前じゃなくて、八九寺――」
「八九寺ちゃん、よね」
「…………」
「つまりね、阿良々木くん。母の日で気まずくて、妹さんと喧嘩して、家に帰りたくない、阿良々木くん。その子――八九寺ちゃんのことなのだけれど」
戦場ヶ原は八九寺を指さした。
つもりなのだろうが――
それは、全然違う、あさっての方向だった。
「私には、見えないのよ」
ぎょっとして――僕は思わず、八九寺を見た。
小さな身体の、利発そうな女の子。
前髪の短い、眉を出したツインテイル。
大きなリュックサックを背負ったその姿は――
どこか、蝸牛に似ていた。
007
昔々のその昔――というほどのことではありません、ほんの十年ほど前の話です。あるところで、一組の夫婦が、その関係に終焉を迎えました。夫一人、妻一人。合わせて二人。かつては周囲の誰もが羨み、周囲の誰もが、幸せになると信じて疑わなかった、そんな二人ではありましたが、結局のところ、二人が婚姻関係にあった期間は十年にも満たない、短いものでした。
いい悪いの問題ではないと思います。
そういうパターンだって、普通です。
その夫婦に幼い一人娘がいたことだって普通です――聞くに堪《た》えないような問答があった末、 その一人娘は、父親の元に引き取られることになりました。
最後は泥沼のような状態で、終焉というよりは破綻《はたん》、あと一年でも同じ屋根の下で暮らしていたら、それこそ殺し合いにでも発展していたのではないかと思われるほど、行き着いてしまった夫婦――母親は父親から、二度と一人娘とは会わないことを、誓《ちか》わされました。法律は関係ありませんでした。
半ば無理矢理に誓わされました。
しかし一人娘は考えました。
本当にそれは無理矢理だったのだろうかと。
同じように父親から、二度と母親とは会わないことを誓わされた一人娘は考えました――あれほど好きだったはずの父親のことをあれほど嫌いになった母親は、ひょっとすると、自分のことも嫌いになってしまったのではないかと。そうでないなら、どうしてそんなことを誓えるのか――半ば無理矢理というなら、残りの半分はどうだったのか。けれど、それはまた、自分にも言えることでした。二度と会わないと、そう誓ったのは自分も同じだったのですから。
そうなのです。
母親だからといって。
一人娘だからといって。
関係に永続性なんて、あるはずがないのです。
無理矢理でしょうがなんでしょうが、誓ってしまった言葉は、もう取り消せません。自分が自ら選び取った結果を、能動態でなく受動態で語るのは、恥知らずのすることでした――一人娘はそういう教育を、他ならぬ母親から受けていました。
父親に引き取られ。
母親の苗字を捨てさせられ。
けれど、そんな思いも――風化していきます。
そんな悲しみも、風化していくのです。
時間は、誰にでも、平等に、優しいから。
残酷なくらいに優しいから。
時が過ぎ、九歳から十一歳になった一人娘。
驚きました。
一人娘は、自分の母親の顔が、思い出せなくなってしまいました――いえ、思い出せなかったわけではありません。その顔ははっきりと、思い浮かべることはできます。しかし――それが母親の顔なのかどうか、確信が持てなくなっていたのです。
写真を見ても同じでした。
父親に秘密で手元に残していた母親の写真――そこに写っている女性が、本当に自分の母親なのかどうか、わからなくなってしまいました。
時間。
どんな思いも、風化していきます。
どんな思いも、劣化していきます。
だから――
一人娘は母親に会いに行くことにしました。
その年の、五月、第二日曜日。
母の日に。
勿論父親にはそんなこと言えるはずもありませんし、母親にあらかじめ連絡を入れるようなこともできません。母親が今どんな状態にあるのか、一人娘は全く知らないのですから――それに。
嫌われていたら。
迷惑がられたら。
あるいは――忘れられていたら。
とても、ショックだから。
正直に言うなら――いつでも踵を返して家に帰れるよう、最後まで計画中止の選択肢を残しておくために、一人娘は、誰にも何も言わず、親しい友達にさえ内緒で――母親を訪れました。
訪れようとしました。
髪を自分で丁寧に結って、お気に入りのリュックサックに、母親が喜んでくれるだろう、そう信じたい、昔の思い出を、いっぱい詰めて。道に迷わないよう、住所を書いたメモを、手に握り締《し》めて。
けれど。
一人娘は、辿り着けませんでした。
母親の家には、辿り着けませんでした。
どうしてでしょう。
どうしてでしょう。
本当に、どうしてなんでしょう。
信号は、確かに、青色だったのに――
「――その一人娘というのが、わたしです」
と。
八九寺真宵は――告白した。
いや、それは、懺悔《ざんげ》だったのかもしれない。
その、とても申し訳なさそうな、今にも泣き崩れてしまいそうな表情を見ていると、そうとしか考えられないくらいだった。
戦場ヶ原を見る。
戦場ヶ原の表情は変わらない。
本当に――感情が顔に出ない女だ。
この状況で、何も思っていないわけがないのに。
「以来……ずっと迷っているってのか、お前は」
八九寺は返事をしなかった。
こちらを見ようともしない。
「目的地に辿り着けなかった者が、他者の帰り道を阻害《そがい》する――忍野さんはそれを肯定しなかったけれど、多分、地縛霊《じばくれい》みたいな感じじゃないのかしら。私達、素人の認識ではね。行きの道、それに帰りの道――往路と復路。巡り巡る巡礼。つまり八九寺だよ――って、そう言っていたわ」
迷い牛。
迷わせ牛じゃなくて――迷い牛である、理由。
そうでなくてはならない理由。
そうだ、怪異自体が――迷っているから。
「でも――蝸牛って」
「だから」
戦場ヶ原は諭すように言う。
淡々と。
「死後、蝸牛に成る――ってことでしょう。地縛霊と言いこそはしなかったけれど、幽霊だっていうのは、忍野さんも言っていたわけだしね。それって、要するに、そういう意味だったんじゃないの?」
「でも――そんなの」
「でも、それだからこそ――単純な幽霊とはパターンが違うってことなんだと思うわ。私達が一般的に思い、考えるような幽霊とはね。蟹とも、やっぱり違うんでしょうけれど……」
「そんな……」
でも、そうだ……牛という名称がついていても牛でないように、蝸牛と言ったからといって、蝸牛の形態を取っているとは限らないのか。怪異というものの本質を――取り違えていた。
名は体を表す。
本体。
見えているものが真実とは限らないし――それとは逆に、見えていないことが事実であるとも限らないんだ、阿良々木くん――。
八九寺真宵。
八九寺、迷い。
マヨイとは――元来、縦糸と横糸がほつれて寄ってしまうことを言い、だから糸偏で紕《マヨイ》とも書き、それは、成仏の妨げとなる、死んだ者の妄執をも意味する――また、宵という字は、それ単体では夕刻辺り、即ち黄昏刻《たそがれどき》、言うなれば逢《お》う魔が刻を意味し、これに真の字を冠するとそれは例外的に否定の接頭語となり、真宵、つまり真夜中、細かくは午前二時を指す古語となり――そう、丑三《うしみ》つ刻《どき》を意味するのである。牛だったり蝸牛だったりひとがただったり――しかし、それじゃあ、そんなの、本当に、忍野の言った通りに――
そのまんまじゃ――ないか。
「でも……本当にお前、八九寺が見えてねえっていうのか? ほら、ここにいるし――」
俯いている八九寺の両肩を、強引に抱えるようにして、僕は戦場ヶ原に向かい合う。八九寺真宵。ここにいるし――こうして触れる。その体温も、その柔らかさも、感じる。地面を見れば、影だって出来ている。噛みつかれれば痛いし――
話せば、楽しいじゃないか。
「見えないわ。声も、聞こえない」
「だって、お前、普通に――」
いや――違う。
違った。
戦場ヶ原は、最初から言っていた。
見えないわよ、そんなの――と。
「私に見えていたのは、あの看板の前でぶつぶつ独り言を言って、最後には一人でパントマイムみたいに暴れだした阿良々木くんだけ――何をしているのか、全くわからなかったわ。でも、話を聞いてみれば――」
聞いてみれば。
そうだ、戦場ヶ原には、全部――逐一丁寧に、僕が説明したのだ。ああ、そうか――だから、だから戦場ヶ原は――住所の書かれたあのメモを、受け取らなかったんだ。
受け取るも何も、見えなかったから。
なかったから。
「でも――それならそうと、言ってくれれば」
「だから、言えるわけないじゃない。言えるわけがないわ。そんなことがあれば――阿良々木くんに見えるものが私に見えなければ、見えない私の方がおかしいんだって、私は普通に思うわよ」
「………………」
二年以上。
怪異と付き合ってきた少女、戦場ヶ原ひたぎ。
おかしいのは自分――異常なのは自分。
そういう考え方が、戦場ヶ原の中には、もう、桁違いなほど頑強に、根付いてしまっている。一度でも怪異と行き遭ってしまった人間は――残りの一生、どうしたって、それを引き摺って生きることになる。多かれ少なかれ、どちらかと言うと――多く。世の中にそういうことがあると知ってしまった以上、たとえそれが無力であっても、知らない振りは、できないのだ。
だから。
でも、やっと問題から解放された戦場ヶ原は、またおかしくなっただなんて思いたくなくて、おかしくなってしまっただなんて思いたくなくて、僕にそんなことを思われたくなくて――見えていない八九寺のことを、見えている振りをした。
話を、僕に、合わせたのだ。
そうか……。
それで、戦場ヶ原は、あんな、八九寺を無視するような態度を……無視という二文字の言葉は、この場合、馬鹿馬鹿しいほど、状況に相応しかった。それに、八九寺の方が――戦場ヶ原を、避けるように、僕の脚に隠れていたのも、同じ理由か……。
戦場ヶ原と八九寺は。
結局一言も、会話をしていない。
「戦場ヶ原……だから、お前、忍野のところには、自分が行くって――」
「訊きたかったから。これがどういうことなのか、訊きたかったからね。訊いたら、窘《たしな》められてしまったけれど――というか、呆れられてしまったようだけれど。いえ、笑われたのかもしれないわね」
確かに、なんて、冗談のように、滑稽《こっけい》な、話だ。
笑えないくらい。
「蝸牛に行き遭ったのは――僕だったのか」
鬼に行き遭って――次は蝸牛。
忍野も――最初からそう言っていた。
临界线@2009-08-03 23:45
全都日文看着晕 转个轻国的翻译版都好 这边难道日语达人很多?
第五話補完 part2
東衣緒@2009-08-03 23:45
「子供――それも童女の怪異というのは、かなり一般的なものだそうよ。勿論、ある程度なら私も知っているわ。国語の教科書にだって載っているものね。旅行者を山の中で遭難させてしまう着物姿の幽霊とか、子供同士の遊びに知らない内に混じってて、遊び終わる頃に、一人、連れていっちゃう女の子とか――迷い牛っていうのは、寡聞《かぶん》にして知らなかったけれど。あのね 、阿良々木くん。忍野さんが、こう言っていたわ。迷い牛に遭うための条件っていうのは――家に帰りたくないと望んでいること、なんだって。望みっていうには、そうね、それはいささか後ろ向きかもしれないけれど、でも、そのくらい、誰でも考えることだしね。家庭の事情なんて、誰にでもあるもの」
「……あ!」
羽川翼。
あいつもまた――そうだった。
家庭に不和と歪みを抱えていて――日曜日は散歩の日。
僕と同じに、あるいは、僕以上に。
だから羽川にも――八九寺が見えた。
見えて、触れて――話せた。
「望みを叶えてくれる……怪異か」
「そう言えば確かに聞こえはいいけれど、でもそれって、人の弱みに付け込むと、そう表現することもできるんじゃないかしら。阿良々木くんだって、家に帰りたくないと、本気で思っていたわけじゃないでしょう。だから、後ろ向きな望みというよりは、そうね、一つの理由というのが正しいんだと思うわ」
「…………」
「けれどね、だからこそ、阿良々木くん。迷い牛への対処はとても簡単なのよ。最初に言ったでしょう? ついていかずに、離れればいいのよ。それだけのことなの」
自ら望んで――迷う。
それはそうだ――理屈は通っている。永遠にどこにも辿り着けない蝸牛の後ろをついて回れば、誰だって、家に帰れるわけがない。
言葉で説明すれば――とても簡単。
羽川が、あっさり、公園を出て行けたように。
帰れば帰れる。
行くモノに、ついていくから、帰れない。
でも。
家に帰りたくない――なんて言っても、結局、人間、帰る場所は、家しかないのだから。
「そんな悪質な怪異じゃないし、そこまで強力な怪異でもない。まず大きな害はない。そう言ってたわ。迷い牛は、ちょっとした悪戯《いたずら》――軽い不思議、そんな程度のものなんだって。だから――」
「だから?」
僕は遮るように言った。
それ以上――聞いていられなかった。
「だからなんだよ、戦場ヶ原」
「…………」
「そうじゃない、そうじゃないだろ、全然そうじゃないんだよ、戦場ヶ原――話はわかったし、それに、どっかにあった違和感みたいなもんも、これで確かに綺麗に片付いたけれど――僕が忍野に訊きたかったのは、そういうことじゃないだろ。博引旁証《はくいんぼうしょう》ご苦労さまじゃああるが、しかし、そういうのを教えて欲しかったから、僕は戦場ヶ原に忍野のところにまで、行ってもらったわけじゃないだろうが」
「……じゃあ、何のためだったの?」
「だから、だ」
ぐいっ――と。
八九寺の両肩を握る手に、力がこもる。
「僕が訊きたかったのは――こいつを、八九寺を、お母さんのところに一体どうやったら連れて行ってやれるかって――それだけだっただろうが。最初から、それだけだっただろうが。そんな、知ったところで誰にも自慢できないような蘊蓄《うんちく》なんて、知らないんだよ。使いどころのない雑学なんて――脳の無駄遣いだ。大事なのは――そういうことじゃないだろう」
阿良々木暦のことじゃない。
あくまで、八九寺真宵のことだった。
僕が離れればいいだなんて――違う。
僕は離れては、いけないのだ。
「……わかってるの? 阿良々木くん。その子――そこにはいないのよ。そこにはいないし、どこにもいないのよ。八九寺……八九寺真宵ちゃんっていうんだっけ。その子は……もう死んでるの。だから、もう、当たり前じゃなくて――その子は怪異に取り憑かれてるんじゃなくて、怪異そのもので――」
「それがどうした!」
怒鳴《どな》った。
戦場ヶ原を相手に――怒鳴ってしまった。
「当たり前じゃないなんて、そんなの、みんなそうだろうが!」
「…………」
僕もお前も――羽川翼も。
永遠に続くものなんて――ないんだ。
それでも。
「あ――阿良々木さん、痛いです」
八九寺が、僕の腕の中で、頼りなげに、もがく。思わず、強く握り締め過ぎて、肩に食い込んだ爪が、痛いらしい。
痛いらしい。
そして言う。
「あ、あの――阿良々木さん。この方の、戦場ヶ原さんの、言う通りです。わたし――わたしは」
「黙ってろ!」
何を喋っても――その声は戦場ヶ原には届かない。
僕にしか届かない。
けれど、その僕にしか聞こえない声で――こいつは最初から、こいつすらも最初から、自分は蝸牛の迷子なのだと、そう正直に――告げていた。
精一杯《せいいっぱい》、出来る限り、告げていた。
そして、また――言っていた。
最初の最初、一言目に。
「お前には聞こえなかったんだったよな、戦場ヶ原――じゃあ僕が言ってやるよ。こいつは――僕に対しても、羽川に対しても、一言目からいきなり、とんでもねえこと吐《ぬ》かしやがったんだ――」
話しかけないでください。
あなたのことが嫌いです。
「わかるか? 戦場ヶ原。ついてきて欲しくないからって――遭う人間全員に、そんな台詞を言わなくちゃいけない奴の気持ちが、お前にわかるってのか? 頭を撫でられそうになったら、その手に噛みつかなくちゃいけない奴の気持ちなんて――僕には全くわからないぞ」
誰かを頼ればいいなんて――酷い言葉だ。
自分自身がそんな存在だなんて。
おかしいのが自分だなんて。
そんなことは、言えるわけがないのに。
「でも、わからなくても、それでも、自分が道に迷っているときに――一人でいるときに、そういうことを言わなくちゃならない気持ちを、それでも――僕もお前も、違う形で、経験してきているはずだろう。同じ気持ちじゃなくても、同じ痛みを抱えてきたはずだろう。僕は不死身の身体になったし――お前だって怪異を抱えた身体になった。そうだろうが、そうなんだろうが。だったら、迷い牛だか蝸牛だか知らないが――それがこいつ自身だって言うんなら、全然、話は変わってくるじゃないか。お前には見えないし、聞こえないし、匂いすらも感じないんだろうけれど――それでも、それだからこそ、こいつを無事に母親のところにまで送り届けるのが――僕の役目だ」
「……そう言うと思ったわ」
戦場ヶ原にそうするのは全くの筋違いでありながら、思わず怒鳴ってしまったところから、徐々に僕の頭も冷えてきて、自分が無茶苦茶なことを言っているのは、勿論、わかっていたが――しかし、戦場ヶ原は、それに対してすら、顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに――僕に言った。
「ようやく――実感できたわ、阿良々木くんのこと」
「……え?」
「阿良々木くんのことを、私、誤解していたみたい。いえ、誤解じゃないか。薄々というか、重々《じゅうじゅう》、それはわかってはいたことだけどね――幻想が消えたっていうのかな、こういうのは。阿良々木くん。 ねえ、阿良々木くん。先週の月曜日、私の些細《ささい》な失敗から、阿良々木くんに、私の抱えていた問題がバレちゃって……そうしたら阿良々木くんは、その日の内に、即日に――私に、声を掛けてくれたわよね」
力になれるかもしれないと言って。
僕は戦場ヶ原に、呼びかけた。
「正直、私は、その行為の意味を計りかねていたのよ――どうして阿良々木くんがそんなことをしたのか。だって、そんなこと、阿良々木くんにとって、何の得にもならないじゃない。私を助けても、いいことなんて一つもないのに―― どうしてかしら。阿良々木くんは、ひょっとして、私だから助けてくれたのかしら?」
「…………」
「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったみたい。そうじゃなくて、単純に、阿良々木くんって……誰でも助けるだけなのね」
「助けるって……そんな大それたことじゃないだろ。大袈裟に言うなよ。あの状況なら誰だってそうするって――それに、お前も言ってたろ、僕はたまたま、似たような問題を抱えてて、忍野のことを知っていて――」
「似たような問題を抱えてなくとも、忍野さんのことを知らなくとも、同じことをした――んじゃないかしら。忍野さんから聞いた限りだと」
何を話した、あの野郎。
あることないこと言い散らしたに決まっている。
「少なくとも私は――住宅地図の前にいる姿を二度ほど見た程度で、知らない小学生に声をかけようとは思わないわ」
「…………」
「ずっと一人でいると、自分が特別なんじゃないかって思っちゃうわよね。一人でいると、確かに、その他大勢には、ならないもの。でも、それはなれないだけ。笑っちゃうわ 。怪異に行き遭ってから二年以上、私の抱えている問題に気付いた人は、実のところ、たくさんいたけれど――最終的にどんな結果になろうとも、阿良々木くんみたいなのは、阿良々木くんだけだったから」
「……そりゃ、まあ、僕は僕だけだろうよ」
「そうね。その通りだわ」
戦場ヶ原は微笑んだ。
そして、それは勿論、たまたま角度が合っただけなのだろうけれど――戦場ヶ原ひたぎは、はっきりと、八九寺真宵のことを、見た。
「忍野さんからの最後の伝言よ、阿良々木くん。どうせ阿良々木くんはそういう甘っちょろいことを言い出すだろうから、優しい優しいこの僕が、今回に限り使えるだろう裏技を一つ伝授しておこう――って」
「う――裏技?」
「本当――見透かしてるわよね、あの人。一体、何を考えて生きているのか、皆目《かいもく》見当つかないわ」
じゃあ行くわよ、と、軽い調子でマウンテンバイクに跨《またが》る戦場ヶ原。既にマシンが自分の所有物であるかのような、手馴れた扱いだった。
「行くって、どこへ」
「勿論、綱手さんのおうちよ。善良な一市民として、八九寺ちゃんを送り届けにね。私についてきて頂戴、先導してあげるわ。それから、阿良々木くん」
「なんだよ」
「 I loveyou 」
「………………」
変わらぬ口調で、指さして言われた。
………………、と。
更に数秒間考えて、どうやら僕は、同級生に英語で告白された、日本初の男になってしまったようだということを、理解した。
「おめでとうございます」
八九寺がそう言った。
全ての意味で、場違いで的外れな言葉だった。
008
そして、一時間後――十年ほど前、正確なところはわからないが、とにかく十年ほど前に、少女、生前の八九寺真宵が母の日に目指した場所――あのメモに書かれていた通りの住所の場所に、僕と戦場ヶ原と八九寺は、辿り着いた。
時間はかかった。
が、しかし――あっさりと。
「……でも、こんな」
とはいえ――達成感はなかった。
目前の光景に、達成感は皆無《かいむ》だった。
「戦場ヶ原――ここで間違いないのか?」
「ええ。間違いないわ」
断言の言葉に、覆《くつがえ》る余地はなさそうだった。
八九寺の母親の家――綱手家。
すっかり綺麗な――更地《さらち》になっていた。
フェンスで囲まれて、私有地、無許可での立入を禁ず――の看板が、むき出しの地面に刺さって、立っていた。その看板の、端の方の錆び具合からして、随分と昔から、それはその形であり続けてきたのだろうことは、否定のしようがなかった。
宅地開発。
区画整理。
戦場ヶ原が住んでいた家のように、道にまではなっていなかったが――その痕跡《こんせき》が全く残っていないという点では、同じだった。
「……こんなことってあるのかよ」
忍野メメーあの出不精《でぶしょう》が提案した、今回に限り使えるだろう裏技というのは、聞いてしまえば、何だそんなことかと思ってしまうような、単純明快極まりないものだった―― 迷い牛 、存在として蝸牛となっているとは言っても、しかし、 怪異としての属性が幽霊であるのなら、そこには本質的な情報的記憶が蓄積しない ――らしい。
この手の怪異は、存在しないのが基本だそうだ。
存在として、存在しない、存在。
見る者がいなければ、そこにはない、と。
今日のことに照らし合わせてそれを言うならば、八九寺は、僕が公園のベンチに腰掛けて、ふと、あの案内図に目を遣《や》ったその瞬間に――そこに現れた、その時点から存在し始めたのだ、ということになる――らしい。
同じ風に言えば、羽川にしてみれば、ふと、公園を通りかかり、僕が座っている隣に目を遣ったとき――八九寺はそこに現れたという理屈になるのだろう。怪異として継続的に存在しているのではなく、目撃された瞬間に現れる――その意味では迷い牛の場合、行き遭うという表現も、半分ほどしか内実を言い当てていないのかもしれない。
見えているときしかその場にいない――観測者と観測対象。羽川ならばこんなとき、それを比喩《ひゆ》するのに相応しいであろう理系の知識を惜《お》しげなく披露してくれていたのかもしれないが、僕はうまいたとえを思いつかなかったし、戦場ヶ原は、知ってはいたのだろうが、わざわざそれを言いはしなかった。
ともかく。
情報的記憶――つまりは知識だ。
僕のような土地勘のない者は勿論、あくまでその付き合いであって、蝸牛が見えてすらいない戦場ヶ原でさえ、迷わせることができる――携帯電話の電波をも遮断することもできる。そして結果的に――対象を永遠に、迷わせ続けることになる。
が。
知らないことは――知らないのだ。
いや、知っていても、対応はできない。
たとえば、区画整理。
十年前に較べてどころか、去年と較《くら》べてさえ、すっかり変わってしまったこの辺りの町並み――近道でもない遠回りでもない、勿論まっすぐ向かうのでもない――
新しく作られた道ばかりを選択したルートを使えば、迷い牛くらいの怪異では対応できない。
怪異が歳を重ねるなんてことはないだろう――少女の怪異はいつまでたっても少女のままだ――だ、そうだ。
いつまでたっても大人になれない――
わたしと同じ
十年前に小学五年生だった八九寺……つまり、時系列を整理すれば、僕や戦場ヶ原よりも年上であるはずの八九寺真宵、しかし、学校でやんちゃしている記憶をつい昨日のことのように語る彼女に、一般的な意味での段階的記憶は存在しない。
しない――
ないのだ。
だから――だから。
古い皮袋に新しい酒――そう言っていたらしい。
忍野の奴、あの不愉快な男は真実、見透かしている――実際には八九寺の姿を見てもいない癖に、事情だってそこまで深く聞いたわけでもないだろう癖に――この町のことだって、まだほとんど何にも知らない癖に、よくもまあ、そんな、知った風なことが言えるものだ。
だが、結果から言えば、これは成功だった。
最近作られたところであろう、アスファルトが黒々しい道を、まるで阿弥陀《あみだ》くじのように取捨選択し、古い道、あるいは新しく舗装《ほそう》されただけの道はできるだけ避けて――途中、戦場ヶ原の家があった道なんかも経由しながら、そして、一時間後。
本来ならば、あの公園から、徒歩で十分もかからないであろう距離に、直線で結べば恐らく五百メートルにも満たないであろう距離に、一時間以上もかけて――
目的地に、辿り着いた。
辿り着いたけれど。
そこは、綺麗な――更地だった。
「そんな、都合よくいかないってことなのか……」
そうだ。
これだけ町並みも道行も変わっているのに――目的地だけが何も変わっていないなんて、都合のいいことがあるわけがない。一年足らずの期間をあけたに過ぎなかったのに、戦場ヶ原の家ですら、道になってしまったのである。そもそもこの計略自体、目的地のそばに新しい道がなければ、単なる机上の空論に過ぎなかったのだ。必然的に、目的地そのものが変わってしまっている可能性は、最初の段階から予測できるほどには、高かったということになる――だけど、それでも、そこくらいは都合よく出来上がってくれていないと、全てが台無しじゃないか。全部、意味なんてなくなっちゃうじゃないか。そこが駄目なら、全部駄目なのに。
世の中はそんなにうまくいかないものなのか。
願いは叶わないのか。
迷い牛の、目的地そのものがなくなっているというのなら――それこそ本当に、彼女は、永遠に迷い続ける、永遠に漂《ただよ》い続ける、際限なくぐるぐると渦巻き続ける、蝸牛の迷子じゃ――ないか。
なんて災禍だ。
忍野は。
あのサイケデリックなアロハ野郎は、この結末すら――こんな最後すら、見透かしていたのだろうか。だから、あるいは、それゆえに、わざわざ――
忍野メメは、あれだけ軽薄で、あんなお喋りな調子者だけれど――別れの言葉は決して口にしないし、訊かれないことには絶対に答えない男なのだ。頼まれなければ動かないし、頼んだから応えてくれるとも限らない。
言うべきことを言わなくとも、まるで平気。
「う、うあ」
隣から、八九寺の嗚咽《おえつ》が聞こえた。
あまりの現実に、とにかく驚くことだけに精一杯で、肝心の八九寺のことを、全く気遣えずにいた自分に思い至り、僕はそちらを振り向く――八九寺は、泣いていた。
ただし俯いてではなく――前を向いて。
更地の上――家があっただろう、その方向を見て。
「う、うあ、あ、あ――」
そして。
たっ、と、八九寺は、僕の脇を抜けて、駆けた。
「――ただいまっ、帰りましたっ」
忍野は。
当然のように――当たり前のこととして、この結末を――こんな最後を、見透かしていたのだろう。
言うべきことを――言わない男。
全く、最初に言っておいて欲しい。
ここに辿り着いて、八九寺に何が見えるのか。
僕や戦場ヶ原には、ただの更地にしか見えないこの場所を――すっかり変わってしまったとしか見えないこの場所を、迷い牛、八九寺真宵が見たときに、一体、どんな風景が、見えるのかということ。
そこに現れるかということ。
開発も整理も――関係ない。
時間すらも。
大きなリュックサックを背負った女の子の姿は――すぐにぼやけて、かすんで、薄くなって……僕の視界から、あっと言う間に、消えてしまった。
見えなくなってしまった。
いなくなってしまった。
けれど少女は、ただいま、と言った。そこは、別離した母親の実家で、今や自分とは関係のある家じゃない、目的のための目的地でしかなかった場所なのに――あの子は、ただいまと言ったのだ。
家に帰ったときのように。
それは。
とてもいい話のように、思えた。
とても、とても。
「……お疲れ様でした、阿良々木くん。そこそこ、格好よかったわよ」
やがて戦場ヶ原が言った。
いまいち感情のこもらない声で。
「何もしてないよ、僕は、別に。 むしろ今回働いたのは、お前だろ。僕じゃないよ。例の裏技ってのも、土地勘のあるお前がいなかったら、成立しない方法論だったしな」
「確かにそうだけれど――そうかもしれないけれど、そういうことではなく、ね。しかし、まあ、更地になっているとは驚いたわ。一人娘が自分を訪ねてくる中途で交通事故にあって――いたたまれなくなって、家族ごと引っ越したってところなのかしらね。当然、それ以外にも、理由なんて、考えようと思えば色々と考えられるけれど」
「まあな――そんなこと言っちまえば、八九寺の母親が、今、生きているかどうかも、わからないって話になるし」
更に言うなら――父親だって、そうだ。
案外――羽川は、本当は知っていたのかもしれない、と、思った。綱手という家について、彼女は何か、思うところがありそうだった。もしも綱手家が、何らかの事情でもってここからいなくなったというのなら――そしてそれを知っていたのなら、羽川は間違いなく、口をつぐむだろうから。あいつはそういう奴だ。少なくとも――杓子定規な奴では、ない。
単に、公平なのだ。
ともあれ、これで、一件落着……か。
終わってみれば、非常にあっけない。そして気が付けば、日曜日の太陽は――今やもう沈もうとしていた。五月の半ば、まだ日は短い……となると、僕もそろそろ、家に帰らないといけない。
八九寺のように。
そういえば、今日は、夕飯の当番だった。
「じゃ……戦場ヶ原。自転車取りに戻ろうぜ」
戦場ヶ原はあれから、マウンテンバイクに乗ったまま僕と八九寺を先導しようとしたが、マウンテンバイクと徒歩とが行動を共にすることの無意味さ、押して歩く荷物と化した際のマウンテンバイクの無価値さに、言われるまでもなくすぐ気付いたらしく、結局、マウンテンバイクはあの公園の駐輪場に、戻しておいたのだ。
「そう。ところで阿良々木くん」
戦場ヶ原は動かず――更地の方角を見たままで言う。
「まだ返事を聞いていないのだけれど」
「…………」
返事って……。
やっぱり、あの件だよな。
「えっと。戦場ヶ原。そのことなんだけど――」
「言っておくけれど阿良々木くん。 私は、どうせ最後は二人がくっつくことが見え見えなのに、友達以上恋人未満な生温《なまぬる》い展開をだらだらと続けて話数を稼ぐようなラブコメは、大嫌いなのよ」
「……さいですか」
「ついでに言うならどうせ最後は優勝することが決まっているのに一試合一試合に一年くらいかけるようなスポーツ漫画も嫌いだし、どうせ最後はラスボスを倒して平和が訪れることがわかりきっているのに、雑魚《ざこ》との戦闘がいつまでたっても終わらないようなバトル漫画も嫌いだわ」
「少年漫画と少女漫画を全否定してるぞ、 お前」
「で。どうするの」
考える隙も与えないような畳み掛けだった。
とてもではないが、言い逃れが許されるような空気ではない。友達全員を引き連れてやってきた女子に告白される男子の心境だって、ここまで息苦しくはないだろう。
「いや、お前、ちょっと勘違いしていると思うんだよ、戦場ヶ原。性急っていうか。確かに前の月曜、お前が抱えてた問題の解決に、僕は少なからず寄与《きよ》したかもしれないけれど、その、言うならば恩みたいなものと、そういう感情をごっちゃにしてしまったら――」
「それはひょっとして、危機的状況において男女は恋愛関係に陥《おちい》り易《やす》いという、人間の理性というものを完全にないがしろにし、そういう場合における本性が露呈《ろてい》した仲間同士の険悪極まりない空気を全く考慮していないあの馬鹿げた法則のことを意識しながら言っているのかしら」
「馬鹿げたって――いや、まあ、そんなものかな? 確かに危険な吊《つ》り橋《ばし》の上で告白するような人間がいたら、そいつはかなりの馬鹿だとは思うが……でも、 ほら、お返しがどうとか言ってたじゃん 、あのときも思ったけれど――お前が僕に、必要以上に恩を感じることなんか……つーか、事情や背景はどうあれ、やっぱ、恩を売ってそれに付け込むみたいな形、僕としてはあんまり、気分よくないんだよ」
「あれは口実よ。主導権を握らせてあげたかったから、阿良々木くんの方から告白させようと思って、ああいう振りをしてみせただけ。愚かな男。貴重な機会を逃したわね。私が誰かを立てるなんて、もう二度とないことなのに」
「………………」
すごい言い草だった。
ていうか、やっぱりそうだったのか……。
誘い受けだったんだ ……。
「安心して。私は本当のところ、阿良々木くんに、そこまで恩を感じているわけではないのよ」
「……そうなのですか」
えー。
それもどうなんだろう。
「だって、阿良々木くん、誰でも助けるんだもの」
朝の段階では、そこまで確かに、阿良々木くんのことが、わかっていたわけでは、実感できていたわけではないけれど――と、流暢に続ける戦場ヶ原。
「私だからじゃなかったけれど――でも、そっちの方が、私にはいいわ。助けられたのが私じゃなくても――たとえば、羽川さんを助けている阿良々木くんを横から見ていただけでも、私は阿良々木くんのこと、特別に感じていたと思うわよ。私は特別じゃなかったけれど、そんな阿良々木くんの、特別になれたら、それほどれだけ痛快なことだろうと、思うのよ。まあ……ちょっと大袈裟な物言いになってしまったけれど、阿良々木くん、強《し》いて言うなら、私はただ、阿良々木くんと話すのが、楽しいだけ」
「……でも、まだそんなに――話してないだろ」
どころじゃない。
先週の月曜日、火曜日、それに今日と、あまりにも密度の濃い時間を過ごしていたせいで、うっかりすると見逃してしまいそうだけれど、戦場ヶ原とこんなに会話をしたのなんて、その月曜日と火曜日、それに今日――だけなのだ。
たかだか三日だけである。
クラスが三年、同じだとはいっても――
ほとんど他人みたいなものだった。
「そうね」
戦場ヶ原は反論せずに頷いて、言う。
「だから、もっと、あなたと、話したい」
もっと、たくさんの時間を。
知るために。
好きになるために。
「一目惚れとか、そういう安っぽいのとも違うと思うわ。でも、下準備に時間をかけようと思うほど、私は気の長い性格ではないのよ。 なんて言うか――ええ、阿良々木くんを好きになる努力をしたいって感じなのかもしれないわね」
「……そっか」
そう言われれば――その通りだ。
言い返しようもない。
好きでい続けるために、頑張る――好きというのは、本来、すごく積極的な感情だから。だとすれば――戦場ヶ原が言うような、そういう形があっても、いいのだろう。
「所詮はこういうのって、タイミングの問題だと思うし。別に友達関係でもそれはそれでよかったんだけれど、私は結構、欲深いのよ。どうせなら、私は究極以外は、欲しくない」
タチの悪い女に引っかかったと思って頂戴。
そう言った。
「誰彼構わず優しくしているからこんな目に遭うのよ、阿良々木くん。自業自得と反省することね。それでも、心配されなくとも、私だって、恩とそういう感情との区別くらいはつくわ。だってこの一週間――私、阿良々木くんで、色々妄想できたもの」
「妄想って……」
「すごく充実した一週間だったわ」
本当――こういう物言いは、直截的。
僕は一体、戦場ヶ原の妄想の中において、どんなことをし、どんなことをさせられたのだろう……。
「そう、もういっそ、こう思ってくれてもいいのよ。愛情に飢《う》えている、ちょっと優しくされたら誰にでも靡《なび》いちゃう、惚れっぽいメンヘル処女に、不幸にも目をつけられてしまった、と」
「……なるほど」
「ついてなかったわね。普段の行いを呪いなさい」
自分を貶《おとし》めることすら厭《いと》わない――か。
そして、そこまで言わせてしまっている、自分。
そんなことまで。
……ったく、格好悪い。
ちっちゃいよなあ、全く。
「だから、阿良々木くん。色々言ったけれど」
「なんだよ」
「この申し出を、阿良々木くんがもしも断ったら、あなたを殺して私は逃げるわ」
「普通の殺人犯じゃん! お前も死ねよ!」
「それくらい、普通に本気ということ」
「……はあ。そうっすか……」
心の底から、反芻《はんすう》するように、嘆息《たんそく》する。
全く、もう。
面白いなあ、こいつは。
クラスが三年同じで、たった三日だなんて――なんて、勿体ない。本当に、阿良々木暦は一体、どれだけ途方もない、莫大《ばくだい》な時間を、無駄にしてきたのだろう。
あのとき、こいつを受け止めたのが。
僕で、本当によかったと思う。
戦場ヶ原ひたぎを受け止めたのが阿良々木暦で――本当によかった。
「ここで少し考えさせて欲しいなんて腑抜《ふぬ》けた言葉を口にしたら、軽蔑《けいべつ》するわよ、阿良々木くん。あまり女に恥をかかせるものではないわ」
「わかってるよ……現時点でかなり、みっともないと思ってるさ。でも、戦場ヶ原。一つだけ、僕の方から条件を出していいか?」
「何かしら。一週間私が無駄毛を処理する様子を観察させて欲しいとか?」
「お前が今まで口に上《のぼ》してきた台詞の中で、それは間違いなく最低の一品だ!」
内容的にもタイミング的にも、間違いなく。
数秒、間合いを改めて、僕は戦場ヶ原に向かう。
「条件っていうか、まあ、約束みたいなもんなんだけど――」
「約束……何かしら」
「戦場ヶ原。見えていないものを見えている振りしたり、見えているものを見えていない振りしたり――そういうのは今後一切、なしだ。なしにしよう。おかしなことは、ちゃんとおかしいと言おう。そういう気の遣い方はやめよう。経験は経験だから、知ってることは知ってることだから、多分、僕もお前も、これからずっと、そういうものを背負っていかなくっちゃならないんだから――そういうものの存在を、知ってしまったんだから。だから、もしも意見が食い違ったら、そのときは、ちゃんと話し合おう。約束だ」
「お安い御用よ」
戦場ヶ原は、涼しい顔で――相変わらず、表情一つ変えないが、それでも、十分に、僕の方からは、その、あまりにもあっけない、ともすれば安請《やすう》け合《あ》いとも取れるような、けれども確かな、ノータイムでの即答に、わずかなりとも、感じるものがあった。
自業自得か。
えてして、普段の行いということ。
「じゃ、行こうか。すっかり暗くなっちまったし、えーっと……送っていくよ、って言うのかな、こういう場合」
「あの自転車じゃ二人乗りは無理でしょう」
「棒があるから、三人は無理でも二人なら大丈夫」
「棒?」
「足を置く棒。正式名称は知らないけど……後輪に装着するんだ。で、そこに立つわけ。前の奴の肩に、手を置いてな。どっちが前かはジャンケンで決めようぜ。蝸牛はもういないから、帰りは別に普通に帰っていいんだよな。来た道なんて複雑過ぎて覚えてないし……。戦場ヶ原、じゃあ――」
「待って、阿良々木くん」
戦場ヶ原は、まだ動かなかった。
動かないまま、僕の手首をつかむ。
他人との接触を、長らく自らに禁じてきた戦場ヶ原ひたぎ――だから、勿論、彼女の方から、そんな風に僕に触ってくるのは、これが初めてのことだった。
触れる。
見える。
つまり、僕達は、ここにいるのだろう。
お互いに。
「一応、言葉にしておいてくれるかしら」
「言葉に?」
「なあなあの関係は、嫌だから」
「ああ――そういうこと」
考える。
究極を求める彼女に、ここで英語を返すのも、芸がない。かといって他の言語に関する知識となると、生半可《なまはんか》なものしか僕にはないし、どちらにしても、二番|煎《せん》じの感を否めない。
と、すると――
「はやるといいよな」
「はい?」
「戦場ヶ原、蕩れ」
ともあれ、これで、概ねのところ。
羽川の思い込みは正鵠《せいこく》を射ることとなった。
やはりあの委員長は、何でも知っているらしい。
009
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされた。起こしにきたということは、どうやら、無条件降伏に近い謝罪の言葉が効を奏《そう》したらしく、二人の怒りは無事に解けたようだった。それとも、今年は結局、何もできなかったわけだけれど、来年の母の日は家の敷地内から絶対に出ないという約束を交わしたのが、よかったのかもしれない。とにかく、月曜日。何のイベントもない、最高の平日。軽く朝御飯を食べて、学校へ向かう。マウンテンバイクではなく、ママチャリで。戦場ヶ原も今日から出席しているはずだと思うと、ペダルを漕ぐ足も、自然、軽かった。けれど、道中、まだそんなに距離を稼いでいない下り坂で、よたよたと歩いていた女の子と衝突しそうになって、僕は慌《あわ》てて、急ブレーキをかけた。
前髪の短い、眉を出したツインテイル。
大きなリュックサックを背負った女の子だった。
「あ……、阿々良木さん」
「入れ替わってるからな」
「失礼。噛みました」
「何してんの」
「あ、いえ、何と言いますか」
女の子は、隠れ身の術に失敗した忍者みたいな戸惑いの表情を見せてから、照れ笑いを浮かべる。
「えーっとですねっ、わたし、阿良々木さんのお陰で、無事に地縛霊から浮遊霊へと出世しましたっ。二階級特進というわけですっ」
「へえ……」
ドン引き。
いくら軽薄なお調子者とは言え、一応は専門家の忍野が聞いたら、あいつでも多分卒倒してしまうだろうと思われる、いい加減というか適当というか、素敵滅法な論理だった。
ともあれ、その子とは積もる話もないではなかったが、とりあえず出席日数のことを常に考えるべき立場にある僕としては、遅刻しないように学校へ行かなくてはならなかったので、ここでは二、三、言葉を交わすだけに留め、
「んじゃ」と、サドルに跨り直す。
そこで言われた。
「あの、阿良々木さん。わたし、しばらくはこの辺り、うろうろしていると思いますから――」
その女の子から、そんなことを。
「見かけたら、話しかけてくださいね」
だから、まあ。
きっとこれは、とてもいい話なのだろう。
艾诺琳@2009-08-03 23:50
表白哪里有几个吐槽非常赞..可惜动画里面删掉了
東衣緒@2009-08-03 23:52
引用
最初由 临界线 发布
全都日文看着晕 转个轻国的翻译版都好 这边难道日语达人很多?
化物語精彩的地方翻成中文是沒有意義的 詳細等看了三樓就明白了
Ahkr@2009-08-03 23:53
引用
最初由 临界线 发布
全都日文看着晕 转个轻国的翻译版都好 这边难道日语达人很多?
爱撕衣那里好像有部分中文的,就是用蓝色标记出了动画没有的对话
然后看着那对话真是很有喜感
zanehugo@2009-08-04 00:06
擦汗……幸好事先翻了翻中文版、了解了一下大致剧情
安心等待lz的neta解释……
qUetZacoAtL@2009-08-04 00:50
引用
没有轻小说是好看的
東衣緒@2009-08-04 00:54
解釋暫時就這幾個
如果有看不懂可以提問 更新在neta解釋裏面
不過我不保證全部能回答上來OTL 不過紅字我肯定都知道。
另外。。。果然到了國內會被誤解成yin蕩么。。。。
蕩れ日文也可以写成惚れ 意思是一样的 最常见的想法还是 見惚れる
不要蕩了。。。TAT 無良字幕害人啊
呼吁大家都來看小說~~~
青耕@2009-08-04 00:58
引用
没有轻小说是好看的
+1
不知为何有点不爽。
東衣緒@2009-08-04 01:04
看不懂当然不好看
青耕@2009-08-04 01:08
:rolleyes:那么难道看懂了就会觉得好看吗?
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