子供の頃のある日、テレビで女子バレーボールの米中ゲームを観た。中国チームは勿論一所懸命に頑張っていたけれど、米国チームの勝ちになった。この結果にむかついた父は、不満な顔で「アメリカ人は違法薬物を使用ばかり。あいつらは女より、男らしいだ」とコメントした。
「でも、彼女らもそれを使用したの証拠がない」と、私が反論した。「女だって、すごく強くなれる。」
父は一層に苛立っていた。「お前は何も分らない。あんなに男らしい女と張り合うと、分が悪いのはこっちだ!」
ただの父娘喧嘩しかなかった。だが十数年後、大学の授業で「女性と民族主義」という課題を討議した時、この昔話をぱっと思い出し、あの日私と父のそれぞれの立場を了解するようになった。小さいな私にとって、国家と民族の観念より、「女の子」としてのアイデンティティの方が鮮明だった。ゆえに父が「あんなに強い女存在するはずもない」と女性の能力を疑われた時、腹が立った。一方的に父から見れば、中国人は公平的なのゲームで負けるはずがなかっただろう。それでこの話は「民族」と「性別」の二つのアイデンティティの衝突を反映していると思う。
簡単に言えば、民族主義というのは、人間を合わさる、統一的な共同体を作るものである。その目的の為に、ある共通属性から外れる人を排除することも必要になる。グローバリゼーションの今日、国家・民族・エスニシティの境界線を越えての国際結婚が随分増えているが、この潮流は均衡的と言えない。アジアの女性と欧米の男性が結婚することが多くなったけれど、逆さは違う。それに、多くの中国の男性は、白人と結婚する中国の女性を厭うことになったらしい。高校時代からアメリカに住んでいた私まで「自分の民族性を捨てて裏切り者」と呼ばれたことがある。大学で色々な中国人の男性と友達になったけれど、お互いに恋愛の気持ちは全然なっかた。それは元々問題として考えなかったので、こんな攻撃的なセリフを初めて聞いた時は本当に驚いた。
「何故中国人の女性は中国人の男性だけと結婚するべきの」と質問したら、大体「お互いの異文化が分り難い」や「外国でレイシズムの被害者になる」や「子供は本物の中国人にならない」などの返事を受け取れる。レイシズムと異なる文化背景は確かに問題であるけれど、そういうことは人にとって必ず違う。グローバリゼーションの影響はまだそんなに強くないが、人々は自分と他人のことを「国と民族の一人」より、「個人」として考えたらよいと思う。