完全转贴
希望达人能解释一下结局
偶看懂了70%,但实在不敢确定.
谢了
イリヤの空、UFOの夏 その1
秋山瑞人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)誰《だれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第四|防空壕《シェルター》
〔#〕:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)〔#改ページ〕
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第三種接近遭遇
〔#改ページ〕
めちゃくちゃ気持ちいいぞ、と誰《だれ》かが言っていた。
だから、自分もやろうと決めた。
山ごもりからの帰り道、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと浅羽《あさば》直之《なおゆき》は思った。
中学二年の夏休み最後の日の、しかも牛後八時を五分ほど過ぎていた。近くのビデオ屋に自転車を止めて、ぱんぱんに膨《ふく》れたダッフルバッグを肩に掛けて、街灯もろくにない道を歩いて学校まで乗った。
北側の通用門を乗り越える。
部室長屋の裏手を足早に通り抜ける。
敵地に潜入《せんにゅう》したスパイのような気分で焼却炉の陰からこっそりと周囲の様子をうかがう。田舎《いなか》の学校のグランドなんて広いだけが取り柄で、何部のヘタクソが引いたのかもよくわからないぐにゃぐにゃした白線はひと夏がかりで散々に踏《ふ》みにじられて、まだ闇《やみ》に慣れきっていない目にはまるでナスカの地上絵のように見える。右手には古ぼけた体育館、正面には古ぼけすぎて風格すら漂う園原《そのはら》市立園原中学校の木造校舎、そして左手には、この学校にある建造物の中では一番の新参者の園原地区第四|防空壕《シェルター》。あたりは暗く、当たり前のように誰の姿もなく、遠くの物音が意外なほどはっきりと耳に届く。いつまでも鳴り続けている電話のベル、何かを追いかけているパトカーのサイレン、どこかで原チャリのセルモーターが回り、誰かがジュースを買って自販機に礼を言われた。ふと、夜空にそびえ立つ丸に「仏」の赤い文字が目に入る。つい最近になって街外れにできた仏壇《ぶつだん》屋の広告塔だ。気分が壊《こわ》れるので、見なかったことにする。
校舎の真ん中にある時計塔は、午後八時十四分を指している。
そんじょそこらの午後八時十四分ではない。
中学二年の夏休み最後の日の、午後八時十四分である。
この期に及んでまだ宿題が丸っきり手つかずの浅羽《あさば》にとって、グランドを隔てて夏の夜に沈むあの時計塔つきの校舎はまさに、木造三階建ての時限|爆弾《ばくだん》に他《ほか》ならない。憎むべきはあの時計塔だった。あの時計塔の歯車の息の根を止めてしまえば、八時十四分で世界中の時間が止まるような気がする。そうなれば、夏休みは終わらないし二学期は始まらない。ここ一ケ月半、あの文字盤《もじばん》を見上げる者といえばせいぜい運動部のイガグリ頭どもくらいしかいなかったはずなのに、少しくらいサボったって誰にもわかりはしないのに、秒針だってないくせに、あの時計塔は一ケ月と半分という永遠にも等しい時間を一秒ずつ削り続けていたのだ。
そして今、浅羽《あさば》に残された時間はあと十三時間にも満たない。
あと十三時間でどかん。情け容赦なく二学期は始まる。理科教師にして二年四組担任の河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十五歳独身は、宿題を提出できない者たちを教壇《きょうだん》に並べて立たせ、科学的な目つきでにらみつけ、並んだ頭を出席簿《しゅっせきぼ》で科学的にばっこんばっこん叩《たた》きながら、なぜ宿題が提出されないのかについての科学的な申し開きを要求するだろう。
──だって先生、仕方なかったんです。ぼくは夏休みの初日にUFOにさらわれて、月の裏側にあるピラミッドに連れて行かれたんですから。そのピラミッドは奴《やつ》らの地球侵略のための秘密基地で、ぼくが押し込まれた牢屋《ろうや》にはぼく以外にも世界各国から同じように連れ去られた七人の少年少女がいました。ぼくらはその牢屋から脱走して、奴らの光線銃を奪って大暴れして、ついにピラミッドを破壊《はかい》してUFOで脱出して、昨日の夜にやっと地球に戻ってこれたんです。宿題をやってるヒマなんかなかったんです。だけど、ぼくらのおかげで人類は滅亡から救われたんだし、こうしてぼくと先生の今日という日もあるわけです。いえ違います、ですからこれは日焼けじゃなくて、UFOの反重力フィールドによる放射線|被曝《ひばく》です。ほらよく見てくださいよ、第五|福竜丸《ふくりゅうまる》みたいでしょ?
八つ裂き間違いなしだ。
とはいえ、「新聞部部長の水前寺《すいぜんじ》さんにつき合って、夏休みの間ずっと園原《そのはら》基地の裏山にこもってUFOを探していました」と正直に話したところで、結果がそう違ったものになるとは思えなかった。その現実は浅羽と一緒に焼却炉の陰に隠れている。あと十三時間足らずで、それはささやかな歴史的事実として確定する。
浅羽|直之《なおゆき》の中学二年の夏休みは、園原基地の裏山に飲まれて消えたのだ。
あと十三時間だ。
死刑囚だって最後にタバコくらいは喫《す》わせてもらえるのだ。
だから自分は、夜中に学校のプールに忍び込んで泳ぐくらいのことはしてもいいのだ。
当然、やるべきなのだった。
すぐ近くのどこかにピントのずれたセミがいて、闇《やみ》の中でじわりと一小節だけ鳴《な》いた。浅羽 は周囲に誰《だれ》の姿もないことを最終確認する。木造三階建ての校舎だけが、「お前の悪事は何もかもお見通しだ」とばかりにすべての窓を見開いて浅羽をにらんでいる。その校舎の真ん中左寄りに職員室があって、そのまた隣《となり》に「仮眠室」という名前の、狭くて畳敷きで用途不明な部屋があることも浅羽は知っている。宿直の先生がいるとすれば多分そこだと思う。が、校舎のどの窓からも明かりは漏れていなかったし、そもそも自分の学校が夜間に宿直の先生などというものを置いているのかどうか、浅羽はよく知らない。
目的地であるプールは体育館の並びにあって、浅羽の隠れている焼却炉からは30メートルほどの距離がある。プールの周囲はフェンスではなく、合成|樹脂《じゅし》のパネルをつなぎ合わせた背の高い壁《かべ》で囲まれている。あれこそ悪名高きベルリンの壁、「これじゃ女子のプールの授業を見物できない」という男子生徒の怨嗟《えんさ》の声を一身に受けてなお揺るぎない難攻不落の壁だ。しかし今の浅羽《あさば》にとって、あの壁は味方だった。あの壁のおかげで、夜中にプールで泳いでいる自分の姿が外から見られることもないわけだから。進入ルートの目途もついている。更衣室の入り口のドアはすっかりガタがきているので、鍵《かぎ》が掛かっていようがお構いなしに力いっぱいノブを回せばロックが外れてしまうことを、浅羽はよく知っていた。
あとは度胸だけ。
誰《だれ》もいるはずがない。絶対バレない。
だけど──という不安を拭《ぬぐ》い去れない。万が一にでも見つかったら大目玉だ。
走った。
ダッフルバッグをばたばたさせて、身を隠すもののない最後の30メートルを走り抜けた。更衣室の入り口をくの字型に目隠ししているブロック塀の陰に転がり込む。呼吸を整え、再び周囲を見まわしてやっと少しだけ安心する。更衣室入り口のドアノブを両手で思いっきり回す。磨耗《まもう》しきった金属がこすれ合う「がりっ」という感触を手に残して、ロックはひとたまりもなく外れた。
そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。
まさか自分に関係があるはずはないとわかってはいても、浅羽は思わず身体《からだ》をこわばらせて息を止めた。
まただ、と思った。さっき焼却炉の陰に隠れていたときにも聞こえた。
サイレンは溶けるように遠のいていき、唐突に途絶えて消えた。
今夜はやけにパトカーが元気だ。何か事件でもあったのだろうか。そう言えば、夏休みの少し前に「北のスパイが付近に潜伏《せんぷく》している可能性があるから気をつけろ」という回覧《かいらん》板が回ったことがある。スパイには夏休みもクソもないのだろうか。
深呼吸をした。
更衣室のドアをそっと開け、中をのぞいてみる。
真っ暗だった。
暗すぎて、この中で着替えるのは無理だと思った。明かりを点《つ》けるのはいくらなんでもまずい。少し迷ってから、浅羽はこの場で着替えることにした。目隠しのブロック塀の陰だし、まさか誰か来たりもしないだろう。バッグを肩から下ろし、ジッパーを引き開け、そのときになってようやく浅羽は重大なミスに気がついた。
山ごもりからの帰り道、だったのだ。
つまり、このバッグの中には山ごもりの荷物が詰まっている。歯ブラシとかタオルとか着替えとか虫除けスプレーとかカメラとか小型の無線機とか。しかし、どう考えても山ごもりに海パンは必要ない。
というわけで、自分は今、海パンを持っていない。
ものすごくがっかりした。
浅羽《あさば》はその場にしゃがみ込んだ。前の晩からの一大決心をしてアダルトビデオを借りにとんでもなく遠くのビデオ屋に出かけ、「これだ!」と思うパッケージに手をかけたそのときに財布を忘れてきたことに気づいた、あのときの落胆に似ていた。
突飛な考えが頭をよぎる。
こうなったら、素っ裸で泳ぐか。
そのくらいの無茶はやってやろうか。
夜中に学校のプールで素っ裸で泳ぐというのは何だかすごく気持ちのいいことであるような気が一瞬《いっしゅん》だけして、自分には露出《ろしゅつ》狂の気があるのかと不安になる。やはり素っ裸はまずい。何か海パンの代わりになるようなものはないかと、闇雲《やみくも》にバッグの中をあさった。
くしゃくしゃに丸めた短パンが出てきた。
シュラフの中で眠るときにはいていた、学校指定の体育の短パンだ。
周囲に誰《だれ》もいないことをもう一皮確認して、浅羽はそそくさとズボンとトランクスを脱ぎ、短パンをはいてみた。Tシャツも脱いで己《おの》が姿を見下ろす。らしくないポケットがついているし、海パンと違ってインナーがないのでやけにすーすーする。
でも、そんなにおかしくはないと思う。
せっかくここまで来たんだし。
腹は決まった。脱いだものをバッグに蹴り込んで浅羽は更衣室の中に入った。かろうじて見分けられるロッカーの輪郭を伝って、塩素の匂いのする湿っぽい暗闇の中を手探りで進んだ。シャワーも消毒|槽《そう》も素通りする。濡《ぬ》れた床の滑りやすさを足の裏で意識しながら、去年の夏に三宅《みやけ》がコケて血塗《ちまみ》れになったのって確かこのへんだったよな、と思う。せんせーおれしぬのーしぬのー、という泣き声までが生々しく蘇《よみがえ》り、浅羽はひとり心の中で詫《わ》びた。すまん三宅、あのときのお前はめちゃくちゃ面白かった。
スイングドアを押し開けて、夜のプールサイドに出た。
そこで、浅羽の思い出し笑いは消し飛んだ。瞬間《しゅんかん》的に足元がお留守になって、のたくっていたホースを踏《ふ》んづけて危うく転びそうになった。
夜のプールサイドに、先客がいたのだ。
女の子だった。
まず、縦《たて》25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある。幻想的なまでに凪《な》いだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。更衣室の暗闇《くらやみ》から出てきたばかりの浅羽《あさば》の目に、その光景は奇妙なくらいに明るい。奇妙なくらいに明るいその光景の中で、女の子は浅羽に背を向けて、プールの手前右側の角のところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる。スクール水着を着ている。水泳帽をかぶっている。真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている。
誰《だれ》だろう、とすら思わなかった。
あまりにも意外な事態に出くわして、何も考えられなくなってしまった。
まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた。
誰にも見つからないように気をつけてはいたが、どうせ誰もいはしないと高をくくっていたところもある。更衣室のドアだって無理矢理開けたし、足音ひとつ立てずに歩いてきたというわけでもない。その女の子が最初からずっとそこにいたのなら、そうした物音が聞こえなかったはずはないと思う。なのに、少なくとも見る限りでは、女の子が浅羽の存在に気づいている様子はまったくない。浅羽に背を向けたまま、身動きもせずにひたすらプールの水面を見つめている。その背中には言い知れぬ真剣さが、これから飛び降り自殺でもするかのような緊張感《きんちょうかん》が漂っている。
女の子が動いた。
右手で手すりにしっかりとつかまりながら、左手を伸ばして水面に触れた。
何かの実験でもしているかのような慎重さで、女の子は指先で小さく水をかき回す。木の葉一枚浮かんでいない水面に波紋が幾重にも生まれ、波紋はレーダー波のように水面を渡って、プールの縁《ふち》に行き着いて反射する。その様子を、女の子はじっと見つめている。
誰だろう。
やっとそう思った。
うちの学校の生徒だろうか。スクール水着は学校指定のもののように見えたが名札がついていない。歳《とし》は自分と同じくらいだと思うが後ろ姿だけでは断言もできない。女の子の斜め後ろには大きなバッグが投げ出すように置かれている。その周囲には服が生々しく脱ぎ散らかされている。それはやはり、女の子のバッグであり、女の子の服なのだろう。
思う。
ということはつまり、女の子はこのプールサイドで水着に着替えたのだろうか。
ものすごく思う、なぜ自分は人間として生まれてきてしまったのか。なぜ自分は、力いっぱい指差して叫びたい、足元にのたくるこのホースとして、そこの壁に立てかけられたデッキブラシとして生まれてこなかったのか。誰もいない夜の学校の誰もいない夜のプールで、ひとりの女の子が星の光に照らされながら着ているものをゆっくりと一枚また一枚
そこから先を、浅羽は意志の力で捻《ね》じ切って捨てた。
女の子の後ろ姿に漂うあまりの真剣さに、浅羽は急に居心地が悪くなってきた。ろくでもない妄想を抱いたことを恥ずかしく思う。女の子がなぜここにいて、何をしているのかはわからない。しかし、女の子がこちらに気づいていないというのはひどくアンフェアなことであると思った。自分に悪気はなくてもこれではのぞきと一緒だ。
声をかけよう、と決めた。
自分の存在を知らせよう。
そう決めで、何と声をかけたらいいのか、言葉の組み立てもつかないままに、浅羽《あさば》は息を吸い込んだ。
タイミングが悪かった。
浅羽が吸い込んだ息を声にして吐き出そうとしたまさに瞬間《しゅんかん》、女の子がいきなり立ち上がろうとした。長いことしゃがみ込んでいたのか、女の子は立ち上がりかけで少しだけよろめき、「あの、」
浅羽のそのひと言に飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いて、女の子は全身で背後を振り返ろうとして、ただでさえ危うかった身体《からだ》のバランスがとうとう木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に崩れた。
一瞬だけ、目が合った。
驚きに見開かれた目の白さを宙に残して、女の子はお尻からプールに落ちた。
派手な水音とともに、大粒の水しぶきがプールサイドのタイルに散った。
浅羽も慌てた。事態の急展開に怖《お》じ気《け》づいた。このまま逃げちまおうかと思う。混乱した目つきで周囲を見回して、当たり前の事実に今さら気づく。プールは薄《うす》っペらで背の高い壁《かべ》に囲まれているのだ。マジックミラーでもあるまいし、外からこちらが見えないということは、こちらからも外が見えないということなのだ。宿直の先生か誰《だれ》かが今にも怒鳴り込んできそうな気がする。
逃げよう。
さんざん躊躇《ためら》った挙げ句にやっとそう決めて、更衣室の方に回れ右しようとした浅羽の足が止まった。
水音がいつまでも止まない。
女の子が水の中で暴れている。ときおり、腕や足が思いがけない角度で水面を割って突き出され、水面を叩《たた》いて沈む。
ふざけているのかと思った。
本当に溺《おぼ》れているらしいと気づいてからも、たった今まで逃げ腰になっていた身体はすぐには動いてくれなかった。あたふたとプールに駆け寄って、そのまま水の中に飛び降りる。足から飛び込んだせいで短パンの中に空気が溜《た》まって、水中でカボチャのように膨《ふく》れた。両手で水をかき分けながら歩き、女の子の手足が跳ね散らすしぶきに片目をつぶりながら手を伸ばし、大きな声で、
「ほらつかまって、ここなら」
足がつくだろ?、そう言おうとした瞬間《しゅんかん》に女の子にしがみつかれた。プールの底で足が滑り、驚《おどろ》きの声を上げる間もなく浅羽《あさば》の頭は水中に没した。
真っ暗で何も見えない。
女の子にしがみつかれて自由な身動きが取れないし、もちろん息はできない。
パニックに陥った。
あっという間にわけがわからなくなった。手を伸ばせば届くはずのプールの縁《ふち》がどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体《からだ》は上を向いているのか下を向いているのか。太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。信じられないくらいの力だった。このままでは自分も溺《おぼ》れると浅羽は本気で思った。ここは足がつくのだ、ここはプールの緑のすぐそばなのだ、懸命《けんめい》に自分にそう言い聞かせ、両足と片腕で夢中になって水の中を探った。
プールの緑に指先が触れた。
プールの底に爪先が触れた。
どうにか体勢を立て直してた。やっとのことで二人の頭が水の上に出る。気道に入ってしまった水に咳《せ》き込みながらも、助かった、と身体中で思う。さっきまでは底無し沼だったはずのプールは、ちゃんと足をついて立ってみればやっぱり浅羽の胸元くらいまでの深さしかない。はは、と小さく笑う。
そして浅羽は顔を上げ、
目が合った、どころではなかった。
タバコ一本分もない、生まれて初めての至近距離に女の子の顔があった。
二人ともいまだに呼吸が荒く、二人ともいまだに抱き合ったままだった。二人が散々にかき回した水の動きに、二人の身体が小さく揺られていた。
浅羽よりも少し背が小さい。水泳帽の縁からはみ出た髪の先から雫《しずく》が滴っている。自分以外の人間なんか生まれて初めて見たとでも言いたげな表情で、浅羽をまっすぐに見つめている。誰《だれ》もいないはずの夜の学校の、誰もいないはずの夜のプールで、見知らぬ女の子と、星の光に照らされながら、
現実の出来事とは思えない。
少しだけ首をかしげ、女の子が何か言おうとした。
まだ言葉を憶《おぼ》えていない幼児がもの問いたげに発する声のようにも、外国語の感嘆詞のようにも聞こえた。
そして、
「っ」
いきなり、浅羽と密着していた女の子の身体にぎゅっと力がこもった。浅羽から半歩だけ身を離し、顔をそむけて両手で鼻と口を覆《おお》う。
それがきっかけになって、目の前の女の子の顔に見とれていた浅羽《あさば》は一挙に現実に引き戻された。自分はそんなにへんな匂いがするのだろうかと思って狼狽《ろうばい》し、密《ひそ》かに手のひらに息を きかけて口臭の有無を確かめ、
けふ、と女の子がむせた。
驚《おどろ》きのあまり死ぬかと思う。女の子が血を吐いている。口元を押さえている手の指の間から、血が滴《したた》り落ちている。
「!!、あ、わ、うわ!、あの、」
みっともないくらいに慌てふためく浅羽を上目づかいに見つめ、女の子は、やっと聞き取れるくらいの声で、
「はなぢ」
そう言って、片手で水をすくい、鼻から口元へと伝い落ちていく血を拭《ぬぐ》う。血を吐いているのかと思ったのは浅羽の勘違いで、よく見れば本当に鼻血だった。
しかし、浅羽にとってはどっちでも同じようなものである。
とにかく、自分が何とかしなくてはならない。
そのことに変わりはなかった。
浅羽はロケットのような勢いでプールから上がり、プールサイドに置かれている女の子のバッグに駆け寄った。脱ぎ散らかされている服の方はできるだけ見ないようにして、幅が親指ほどもあるごついジッパーに手をかけた。頭の中の慌てふためいている部分は「タオルぐらいは入っているだろう」と考えており、わずかに残っていた冷静な部分が「女の子っぽくないバッグだな」と考えていた。色は暗い緑で、固い手ざわりの頑丈な素材でできていて、でっかいポケットがいっぱいついている。園原《そのはら》基地の兵隊が持ち歩いているバッグに似ていた。ジッパーを一気に引き開け、一番上に入っていたバスタオルを引っぱり出して、そのすぐ下に入っていた物を目にして思わず息を呑《の》んだ。
錠剤が一杯に詰まった、ジュースの缶ほどの大きさの、プラスチック製の瓶《びん》が三本。
見てはいけない物を見てしまった。
そう思った。
浅羽はあたふたとジッパーを閉めてしまった。なにしろ慌てていたし、大量の薬が詰まった瓶のインパクトに目を奪われていたし、それ以上はろくに見もしなかった。だから、薬の瓶のすぐ隣《となり》に、口径が9ミリで装弾数は十六発の「もっと見てはいけない物」のグリップが突き出ていたことに、浅羽はついに気づかなかった。
バスタオルを手に、できるだけさりげない表情を顔に、浅羽は大急ぎでプールに駆け戻った。女の子はようやくプールから上がろうとしているところで、それはまるで鉄棒に足をかけてよじ登ろうとしているようなスキだらけの格好で、浅羽はじろじろ見てはいけないという一心から不自然なくらいにそっぽを向き、
「これ」
バスタオルを差し出した。
しばらくしてから浅羽《あさば》が視線を戻すと、女の子の上目づかいの視線にぶつかった。両足を水に入れたままプールの縁《ふち》に座って、肩にかけたバスタオルの両端で鼻を押さえている。鼻血はもう収まりかけているようだったが、バスタオルを染める赤にどきりとする。
どうしよう、と思う。
現実から足を一歩だけ踏み外しているような感覚がいまだに続いている。正直なところ、なんだか気味が悪い、とも少しだけ思う。「じゃあぼくは帰るから」と告げて、とっととこの場から立ち去りたいという気持ちは、心の中で決して小さくはない。
だけど──
女の子がじっと浅羽を見つめている。浅羽は再びそっぽを向く。
このままここに残していったら、この子はいつまでもこうしてプールの縁に座っているのではないか、という気がする。
「見た?」
いきなり、女の子がそう尋ねた。
浅羽は不意を衝《つ》かれて言葉に詰まった。血を見て慌てていたとはいえ、断りもなくバッグを開けてしまったのはまずかった、と浅羽は思う。それに、こうもはっきりと聞かれてまだとぼけるのも、なんだかズルいような、男らしくないような。
近からず遠からずの距離を目で測って、浅羽は女の子と同じようにプールの縁に座った。
「──病気なの?」
女の子はほんの一瞬《いっしゅん》だけ、ほんのわずかに怪訝《けげん》そうな顔をして、すぐに首を振った。その後に何か説明があるのだろうと思って浅羽は続く言葉を待ったが、女の子はそれっきり黙《だま》っている。浅羽は沈黙《ちんもく》に耐えきれなくなり、何か言わなければと思って、
「名前は?」
女の子が答える。
「いりや」
何を言っても外国語のように響《ひび》く、少し不器用な感じの、不思議な声だった。
「──それ、名前? 名字《みょうじ》?」
ひと呼吸おいて、女の子はこう答えた。
「いりや、かな」
「伊里野《いりや》」かもしれない、と思った。そういう地名が園原《そのはら》市の中にあるから。
女の子は浅羽の次の言葉をじっと待っている。
何か言わなければ、と浅羽は思う。
「──泳げないの?」
言ってしまってから、もうちょっと実のあることを聞けないのかバカめ、と自分でも思う。泳げないに決まっている、さっき溺《おぼ》れているところを助けたばかりではないか。
目を合わせないようにしている浅羽《あさば》の視界の中で、女の子がこくっとうなずいた。
何か言わなければ、と浅羽は思う。
思うのだが、切れ端のような言葉でしか喋《しゃべ》らない女の子に引きずられているのか、頭の中で渦巻く疑問をちゃんと意味の通る「質問」にすることができない。疑問を生のままで口にすれば「君は誰《だれ》?」というひと言だけになってしまう。この女の子がそれに明快な答えを返してくれるとは思えない。沈黙《ちんもく》は続き、緊張《きんちょう》はいや増し、何か言わなければと焦れば焦るほど、「じゃあぼくは帰るから」以外には何の言兼も思い浮かばない。
「およげる?」
いきなり、女の子がそう尋ねた。
あなたは泳げるのか、と質問しているのだ。そのことを理解するまでに少しかかった。
そして、そのひと貢が突破口になった。
「──あのさ、もしよかったら、」
この子は泳げない。そして、得意中の得意というわけでもないけれど、自分は泳げる。
その点において自分は、多少なりともいいところを見せられる。
「教えてあげるよ、泳ぎかた」
浅羽はそう言った。
言ってしまってから、自分の提案に自分でためらいを覚える。この女の子はさっき鼻血を出した。バッグには得体の知れない薬がどっさり入っていた。本人がどう思っているのかはわからないが、そもそもこの子がプールで泳ぐなどという事自体が無理な話なのではないか。
ところが、女の子はこくっとうなずいて、ほんの少しだけ嬉《うれ》しそうな顔をした。
その顔を見ただけで、浅羽はあっけなく勢いづいた。
「ちょっと待ってて」
ビート板を取ってこようと思って、小走りに用具置き場へとむかう。気配を感じてふと振り返ると、待っていろと言ったのに、女の子は小犬のように浅羽の後をついてきていた。ビート板の山をひっくり返して、できるだけきれいでぬるぬるしていないやつを探している間もずっと、女の子の視線に背中がむずむずしていた。
思う。
ひょっとすると、この子は泳げないというよりも、生まれてから今日まで一度も泳いだことがなかったのかもしれない。
それでも、どうしても泳いでみたくて、一大決心をしてやって来たのかもしれない。
きっとそうだ、と浅羽は根拠もなく思う。
病気なのかと浅羽は尋ね、女の子は首を振った。しかし、いわゆる病気ではないにせよ、あれだけの薬を持ち歩いているのはやはり普通ではないのだろう。
例えば、生まれつき身体《からだ》が弱い、とか。
長いこと患っていた大きな病気が最近やっと治ったばかり、とか。
きっとそうだ、と浅羽《あさば》は思った。この子はずっと昔から病院を出たり入ったりの生活をしていて、学校も休みがちで、それこそ体育の授業なんかはずっと見学で、プールの授業では泳いでいる友達の姿をただ見ているだけで、それでも泳ぐということにすごく憧《あこが》れていて、最近になってやっと身体の具合がよくなってきたのでお母さんに「プールに行ってもいい?」と尋ねてみても「なにバカなこと言ってるのこの子はだめに決まってるでしょあらこんな時間もう薬は飲んだの?」かなんか言われて、それでもあきらめきれなくて、こっそり家を抜け出して夜のプールにやって来たのだ絶対そうだ、と浅羽は思った。
そう考えれば、何となく線が細い感じがすることも、プールを見つめていたときの思いつめたような雰囲気も、くそ真面目《まじめ》に水泳帽をかぶっていることも、いきなりの鼻血も大量の薬も、ぜんぶ説明がつくような気がした。
ビート板を二枚手に取ってプールに戻り、ざぶんと足から飛び込んだ。女の子はプールの縁《ふち》で少しためらって、浅羽と同じように足から飛び込む。まるで、浅羽のやることを何から何までそっくりそのまま真似《まね》しようとしているかのように見える。
ビート板を女の子に手渡して、
「これにつかまってれば溺《おぼ》れたりしないから」
そこでふと気になって、
「──あのさ、水に顔つけられる?」
女の子は、恐々と首を振る。
というわけで、まずはそこから始めなければならなかった。
一番時間がかかったのもそこだった。励ましてもなだめても、女の子はなかなか顔を水につけることができなかった。ところが、ずいぶんかかってようやく頭全部を水の中に入れることができるようになると、そこから先は早かった。プールの縁につかまって身体を伸ばす練習をして、バタ足の練習をして息継ぎの練習をして、いよいよビート板を使った練習に移った。
そして、中学二年の夏休み最後の日の午後九時を、十分ほど過ぎた。
そして、そのころにはもう女の子は、ビート板につかまってなら15メートルを泳げるようになっていた。バタ足の膝《ひざ》が曲がっているので盛大な水しぶきが上がる割にはずいぶんなノロノロ運転だし、放っておくとどんどん右に曲がっていく。とはいえ、まったくのカナヅチからのスタートだったことを思えば長足の進歩だ。もともと運動神経がいいのかもしれない。
教える方の浅羽も最初はおっかなびっくりで、女の子がまた鼻血を出したらそこですぐにやめにしようと思っていた。が、女の子の上達の早さにどんどん欲が出てきた。女の子は相変わらず寡黙《かもく》で、浅羽《あさば》の言葉にもうなずいたり首を振ったりするだけだったが、何かひとつのことができるようになるたびに表情が少しずつ明るくなった。
「すごいよ。この調子でいけば来週には水泳部のエースだ」
女の子は、少しだけ嬉《うれ》しそうな顔をした。ここ一時間ほどの間に、浅羽はこの「少しだけ」の微妙な差をどうにか読み取れるようになっていた。今のこの顔は、これまでで一番嬉しそうな顔だ。
「じゃあ、そろそろビート板を卒業だ」
途端に女の子の表情が固くなる。
「大丈夫だって、もうひとりで泳げるって。もうビート板なんかあってもなくても一緒だよ」
女の子はこくっとうなずく。が、それは言われたことに納得しているわけではなくて、浅羽を失望させたくない一心からのものであるようにも見える。
「あ、あのさ、」
浅羽はあっという間に妥協して、
「それじゃまずは、ぼくが手をつかまえてるからさ。それなら平気でしょ?」
浅羽はそう言って両手を差し出した。
今度は女の子も納得したのか、少しだけ安心したような表情を見せた。自分から両手を伸ばして浅羽の手首をつかむ。浅羽の手は、女の子の手首をつかむ形になった。
そして、浅羽はやっと「それ」に気づいた。
その瞬間《しゅんかん》に女の子も、浅羽が気づいたことに気づいてぎくりと身を固くした。たった今まで、自分の手首に「それ」があることを、女の子は自分でも忘れていたのかもしれない。
浅羽は指先で、女の子の手首を探る。
何か、硬くて丸いものがある。
ゆっくりと、手首を裏返してみた。
卵の黄身ほどの大きさの、銀色の金属の球体が、女の子の手首に埋め込まれていた。
女の子がじっと見つめてくる。
水の動きに身体《からだ》が揺られている。
現実が水に揺られて、再び遠のいていく。
「痛くないから」
そう言って、手首の金属球が浅羽によく見えるように両手を差し伸べて、女の子が近づいてくる。
生の疑問。何をおいてもまず最初に聞いておくべきだったこと。
君は、誰《だれ》。
「なんでもないから」
優位は逆転していた。今、怖《おそ》れるなと言い聞かせているのは女の子の方だった。浅羽《あさば》は後ずさりしようとするが、ひたむきなその目にじっと見すえられ、外国語のような響《ひび》きをもつその口調に呪縛《じゅばく》されている。後ずさりの最初の一歩がどうしても踏み出せない。
「なめてみる?」
女の子はもう、目の前にいた。
女の子と浅羽の顔の間には、もう、銀色の球体が埋まった手首があるだけだった。
「電気の味がするよ」
誰《だれ》もいないはずの夜の学校が、誰もいないはずの夜のプールが、星の光が、見知らぬ女の子が、何もかもが、現実の出来事とは思えない。
いきなり、パトカーのサイレンが聞こえた。
驚《おどろ》きのあまり、浅羽の口から情けない悲鳴がもれた。
本当にすぐ近くから聞こえた。学校の中か、あるいは外だとしてもグランドの周囲をめぐっている通りのどこか。体育館の窓に点滅するパトライトの照り返しが見える。一台や二台ではない。
女の子は無言だった。
表情の動きもあるにはあったが、浅羽の目には、自分の十分の一も驚いているようには見えなかった。そのことが浅羽のパニックをさらにあおる。とにかく自分が何とかしなくてはならないのだ。何が何だかわからないままに、浅羽は女の子の手を引いて無我夢中でプールから上がろうとした。
そして、浅羽がプールの縁《ふち》に行き着くよりも早く、その男は現れた。
更衣室のスイングドアから、ゆっくりとプールサイドを歩いてくる。
背の高い、年齢《ねんれい》のよくわからない男だった。
スーツの上着を肩に引っかけて、もう片方の手にはバスタオルを持っていた。ネクタイはしていない。顔つきは若くて、タレ目で、いつも下品な冗談を言ってはひとりで大笑いしていそうな感じがする。しかし、何かにひどく疲れたような、すり切れたような雰囲気がどこかに漂っていた。
「帰る時間だ」
立ち止まり、プールサイドから女の子をまっすぐに見つめて、男はそう言った。
現実は、女の子の鼻血と一緒に、プールの排水口に流れ込んで消えてしまったのだと思う。
何が何だかわからないし、混乱していたし、怖くないといえば嘘《うそ》もいいところだ。しかし、浅羽は虚勢を張った。一歩前に出て、女の子を背後に庇《かば》う位置に立った。
男はそれを見て、思いがけないものを見て感心したかのような、おっ、という顔をする。
女の子が背後からささやく、
「だいじょうぶ、知ってるひと」
浅羽《あさば》はそれでも男から目を離さず、肩ごしに、
「誰《だれ》?」
男がそれに答えた。
「──そうだな。まあ、その子の兄貴みたいなもんだ。君は?」
浅羽はつばを飲み込み、わざと不機嫌そうな声を作った。
「この学校の生徒」
です、と言ってしまいそうになるのを堪《こら》える。男は周囲をぐるりと見回して、
「なんでまた。こんな時間に」
「泳ぎたくて」
浅羽のそのひと一言に、男はいきなり顔中で笑った。
「──っかそっか。なるほどな。今日で夏休み終わりだもんな」
男はプールの縁《ふち》にしゃがむ。ニタニタ笑いながら浅羽を見つめて、
「おれも昔よくやったよ。おれのいた学校にゃ住み込みの用務員がいてさ、これがまたとんでもねーカミナリおやじでな。泳ぎに行くっていうよりダチ同士の度胸くらべさ。大|騒《さわ》ぎしながら泳いでるし、二回に一回はおやじが箒《ほうき》持ってすっ飛んでくるんだが、こっちだって端《はな》からそのつもりだからそうそう捕まりやしない。で、うまく逃げおおせたらおやじんところにイタズラ電話入れてさ、『あー、長沢《ながさわ》くん』これ校長の物真似《ものまね》な、長沢ってのはおやじの名前な、『あー長沢くん。あれかね、チミは、プールに忍び込んだ生徒を捕まえることもできんのかね。そんなことじゃクビだよチミ』。おやじもーカンカンに怒ってなあ。あれは面白かった」
プールの外に複数の人と車の気配。静かなエンジン音、タイヤが砂利を噛《か》む音、ドアを叩《たた》きつけるように閉める音。
囲まれている。
なのに、この男以外には誰もプールの中には入ってこない。
この男もまったく得体が知れない。話のわかる兄貴分という雰囲気が、うわべだけの作り物のようには見えない。浅羽には、そのことが逆に薄《うす》気味悪く思えた。
「あの、」
生の疑問再びだった。
あんたたちは何者なのか。
そして、女の子と同じように、この男もまた、そんな疑問に明快に答えてくれるとは思えなかった。浅羽の言葉は出だしでいきなり失速し、男がそこに先回りをする。
「今でもありがたいと思ってるよ。長沢のおやじはさ、おれらガキどもの遊びにちゃんとつきあってくれてたんだよな。毎度毎度悪さをするメンツなんて知れてるしさ、捕まらなくたっておれらの名前なんか割れてたはずなんだ。けど、おやじはおれらのこと先生にちくったりしなかった。──だからまあ、おれは今でも、君みたいなイタズラ坊主にはわりと寛大なわけさ」
そう言って、浅羽《あさば》をじっと見つめる。
お前がここにいたことは黙《だま》っていてやるから、お前の方も何も聞くな。
そう言っているのだ。
浅羽はそう理解した。
男を見つめて、浅羽は小さくうなずいた。
男はにかっと笑った。上着のポケットから無線機のような物を取り出して、
「いま終わった。Cが1、これから出ていく」
早口にそれだけ言って、背伸びをしながら立ち上がった。
「さ、もう上がれ。ビート板ちゃんと片づけろよ。あと目も洗え。ところでお前、」
女の子にむかって、
「泳ぐのなんて今日が初めてだろ?」
浅羽の手を借りてプールから上がった女の子は、ひと言だけ、
「教わった」
男は、へえ、という顔をした。女の子の頭にバスタオルを投げかけ、
「そいつは世話になったな。お前もほら、」
そう言って、バスタオルごしに女の子の頭を乱暴にぐいと押してお辞儀をさせた。
「君がまず先に出てくれ。外にいる連中は、何も危害は加えない」
頭の中は混乱していた。
言いたいことは、聞きたいことは、山のようにあった。
おぼつかない足取りでプールサイドを歩き、更衣室のスイングドアを押し開け、そこで浅羽は背後を振り返った。男が小さく手を振った。女の子はその隣《となり》で、バランスの悪い人形のように立ち尽くしている。頭にかぶったバスタオルの陰から浅羽をじっと見つめている。
すべてが、現実の出来事とは思えなかった。
ビート板を片づけるのも目を洗うのも忘れていたが、男は何も言わなかった。
◎
浅羽|直之《なおゆき》のUFOの夏が始まったのは、今を溯《さかのぼ》ること二ヶ月前の、六月二十四日の放課後のことである。
園原《そのはら》中学校の三年二組に水前寺《すいぜんじ》邦博《くにひろ》という実にハイスペックな男がいる。出席番号は十二番で、十五歳にして175センチの長身で、全国模試の偏差値は81で、100メートルを十一秒で走り、顔だってまずくはない。
が。
この人はエネルギーの使い方を生まれつき間違えてるんだよな、と浅羽《あさば》はいつも思う。
なにしろ、進路調査表の第一志望に本気で「CIA」と書く男である。
三年二組で十二番で175センチで81で十一秒に加え、水前寺《すいぜんじ》邦博《くにひろ》は自称・園原《そのはら》中学校新聞部の部長兼編集長でもある。なぜ「自称」なのかというと、新聞部は学校側に公式に部として認められていないからだ。メンバーはずっと三年生の水前寺と二年生の浅羽の二人だけだったが、この春に浅羽と同じクラスになった須藤《すどう》晶穂《あきほ》が何を思ったか「あたしも入ろっかな」と乱入してきた。
これで部員は三人となった。
校則によれば、部長が三人いれば部として申請《しんせい》できることになっているし、晴れて公式な部となれば部室や部費がもらえる。だから晶穂はいつも申請しろしろとせっついているのだが、肝心の水前寺にその気がまるでない。その理由がまたすごい。
『ジャーナリズムの自主自立を守るために、体制からは慎重な距離を保つべきである』
ばっかみたい、と晶穂は言う。
とはいえ、仮に水前寺が申請をしたとしても、学校に部として認められることはないだろうと浅羽は思う。
紙面の内容が内容だからだ。
園原中学校には、水前寺邦博が100メートルを十一秒で走ることを知らない者はいても、水前寺邦博が超常現象マニアであることを知らない者はいないのだ。さらに言えば、水前寺にとっては天下のCIAですら、超常現象の真実を解明するための手段のひとつにすぎない。水前寺がなぜCIAを志望しているかといえば、本人|曰《いわ》く「CIAに入って超スゴ腕の工作員になって秘密作戦に参加したり極秘文書を閲覧《えつらん》できる立場になれば、おれの知りたいことがぜんぶわかるかもしれない」ということらしい。
ではその「おれの知りたいこと」というのは一体何かというと、これが概《おおむ》ね季節によって変わる。
例えば、この冬の水前寺テーマは「超能力は果たして実在するか」だった。この頃《ころ》、水前寺(と浅羽)は昼休みに放送室を占拠し、全校生徒を対象にテレパシー実験をやらかして先生にめちゃくちゃ怒られた。
そして春が来て、水前寺テーマは「幽霊《ゆうれい》は果たして実在するか」に変わった。この頃、水前寺(と浅羽)は幽霊が出ると噂《うわさ》の帝都《ていと》線|市川大門《いちかわだいもん》駅女子トイレを夜中に潜入《せんにゅう》取材して110番され、先生にめちゃくちゃ怒られた。
そういう男が編集長の、つまりはそういう新聞なのである。
名前だって、少し前までは「太陽系電波新聞」だった。
しかし、晶穂《あきほ》が入ってから状況は少しだけ変わった。今でも水前寺《すいぜんじ》テーマ関連の記事が紙面の七割近くを守ってはいるが、晶穂の担当する「真面目《まじめ》な記事」もじわじわとその版図を拡大しつつある。最近になって晶穂は編集会議で「紙名を変更すべきだ」という主張をぶち上げた。五時間にも及ぶ舌戦の末に浅羽《あさば》の調停工作がやっと実を結び、双方|崖《がけ》っぷちギリギリの妥協点として「園原《そのはら》電波新聞」という線で一応話は落ち着いた。新紙名をどう思うかと浅羽が尋ねたところ、