日本以外全部沈没 [筒井康隆](日)
「おいおい。シナトラが東海林太郎《しょうじたろう》のナンバーを歌い出したぜ」おれと並んでカウンターで飲んでいる古賀《こが》がそう言った。
「ヤマノ、カラスガ、ナイタトテ」
「こわもてしなくなったシナトラに魅力はないよ」と、おれはいった。
「老後が不安なんだろう」古賀は小気味よさそうにいった。「歌えなくなったら、日本を追い出されるかもしれないものな」
おそらく追い出されるだろう、と、おれは思った。あの歳《とし》では、日本語を憶え、日本の生活様式を身につけて日本人に同化するのはまず無理である。だが日本政府は、日本国内に入国を許可された外人たちのうち、三年経《た》っても日本に馴染《なじ》まぬ者は強制的
に国外へ追放する方針だった。
「で、日本に馴染んだかどうかは、どうやってテストするんだろう?」
「さあね」古賀は首を傾《かし》げた。「都々逸《どどいつ》でも歌わせるさ」
「箸《はし》で冷奴《ひややっこ》が食えるかどうか試してもいいな」
古賀はげらげら笑った。「日本式便所で大便をさせてみる。あっ、もっといいことがあるぞ。日本の早口ことばを喋《しゃべ》りながら羽織と袴《はかま》の紐《ひも》を結ばせるってのはどうだ」
「それは日本人でもできないやつがいるぜ。特に若いやつなんかは」
おれがそう言った時、古賀の横で飲んでいた初老の外人が溜息《ためいき》をついた。「アマリ、カワイソウナコト、イワナイデクダサイ」
見たことのある男だな、と思ってよく見るとポンピドーだった。さすが大統領だけあって頭がよく、すでに日本語をマスターしてしまったらしい。
「オイダサレテハ、イクトコロアリマセン」
「チベット高原、パミール高原、それにキリマンジャロの山頂、アンデス山脈の二、三か所はまだ沈没していませんよ」古賀が意地悪くいった。
「アンナトコロ、ユケナイヨ」ポンピドーは悲鳴まじりに叫んだ。「ヤバンジン、ウヨウヨ、アツマッテイル」
おれの右隣でさっきから飲んでいたインディラ?ガンジーが、酒の肴《さかな》に近所の店から取り寄せた朝鮮焼肉を食いながら言った。「あそこじゃ、殺しあいをしてるんですってね」
おれはびっくりして彼女に注意した。「あなた、それ牛肉ですよ」
「あら、人間の肉を食べるよりはましよ」
チークの厚いドアをあけ、毛沢東《もうたくとう》と周恩来《しゅうおんらい》が店内をのぞきこんだ。
「よその店へ行きましょう」周恩来が毛沢東の袖《そで》を引いた。「蒋介石《しょうかいせき》が来ています」
「くそ」
ふたりは、さっと店を出た。
「ねえ。お願いしますよ」すぐうしろのボックスにいるローマ法王は、一緒に飲みにきている日本人官僚のひとりに、しきりに頼みこんでいた。「上野公園をくださるよう、閣僚の誰かにとりなしてください」
官僚は苦笑した。「あそこをバチカン市国にするっていうんでしょ。同じくらいの広さだからな。だめだめ。それはあなた、あまりに厚かましいですよ。どんな小さな国に対しても国土は分割できません。どうも小さな国ほど領土への執着が大きいようだ。昨夜もグレース公妃が
昭和島をくれといって、わたしの寝室へ忍んできた」
「そうとも、やることはありません」隣のボックスで盗聴していたニクソンが振り返り、大声でいった。「わが国の八百五十万人が、今も相模《さがみ》湾の沖で千二百隻の船に乗って入国させて貰《もら》えるのを待っているんですぞ。領土を寄越《よこ》せなどとは、あまり
に神を恐れぬ欲深さです」
「その船の半数では、殺しあいがはじまっている」酔っぱらったキッシンジャーが、泣き声でいった。「それを思うと、とてもこんなところで飲んでいられる気分ではない。しかし飲まずにはいられないのです。飲む以外にすることがない。毎晩ホテルと西銀座を往復する以外日
課がないとは、なんとなさけない、なさけない」わあわあ泣きはじめた。
「泣くな泣くな。そのかわり、いいこともあった」と、ニクソンがなぐさめた。「黒人をひとりも船に乗せなかったのはお手柄だ」
「あちこちで海戦がはじまってるそうだぜ」と、古賀がささやいた。「食糧の奪いあいだ。いちばんひどいのは室戸岬《むろとみさき》南方の海上で入国許可を待っていたスエーデン、ノルウェー、デンマークの船の連中で、ほとんど共倒れになったらしい」
「バイキングの子孫同士で争ったわけだな」おれは頷《うなず》いた。「北海道の方はどうなんだ。カラフトやカムチャッカの方から、スラヴやツングースがなだれこんできたらしいが」
おれは社会部の記者だが彼は政治部なので、そういった情報には詳しく、キャッチするのも早い。
「北部方面隊と第2航空団が出動してやっつけてる。皆殺しだ」古賀はそういった。「殺戮《さつりく》にはアイヌも手を貸してる」
チークのドアを押してトム?ジョーンズが入ってきた。黒い制服のドア?ボーイが邪険《じゃけん》に胸を押しとどめた。
「もう、満員です」
「ひとりくらい、なんとかなるだろう」
「駄目です。立って飲んでる人もいるくらいですから」
ボーイが指さした壁ぎわでは、窮屈そうに肩をすくめたローレンス?オリヴィエとピエール?カルダンが立ったままでブランデー?グラスを持っていた。
「入れてくれたら、歌ってやるぜ」と、トム?ジョーンズがいった。
「いえ、結構です。シナトラ一家がいますし、ビートルズの四人も揃《そろ》ってますから」
トム?ジョーンズは肩をすくめて出て行った。
「いろんなやつがくるな」と、古賀はいった。「来ないやつがいないみたいだ。もうじきゴドーまでやってくるぞ」
「ゴドーじゃなくて、後藤が来たぜ」おれはドアの方へ顎《あご》をしゃくった。
科学部記者の後藤が眼をぎらぎら光らせ、人混みをかきわけておれたちの方へやってきた。
この「クラブ?ミルト」は、もともとわれわれ新聞記者の溜《たま》り場だったから、どんなに店が混んでいる時でも門前払いをくわされるようなことはない。もともと、日本に難を逃れてきた外国人たちがこの店に集まるようになったのも、彼らがことばの不自由さから情報不足
に陥り、この「クラブ?ミルト」へ来ればわれわれから新しいニュースを得て餓えを満たすことができるためである。現在のこの店の空前の盛況は、いわばわれわれ新聞記者のお蔭《かげ》なのだ。
「おい。今、そこのポニー?ビルの裏通りの暗いところに、エリザベス?テイラーが立っていたぞ」眼を細めて後藤がいった。
おれは後藤のために古賀との間へ空間を作ってやりながら言った。「ついに彼女も街頭に立ちはじめたか。もうパトロンはいないし、ドルは値打ちがないからな」
「悪い日本人にだまされ、全財産巻きあげられたんだろう。外人と見ると弱味につけこんで、寄ってたかって裸にしちまう。まったく日本人ってのは血も涙もない人種だな」
「おれ、行こうかな」古賀が腰を浮かした。「ひと晩いくらだと言ってた」
「よせよせ。あんなデブ」
「おれ、デブが好きなんだよ」
「もっといいのがいくらでも来てるよ。昨夜は面白かったぞ。学芸の山ちゃんと一緒に乱交パーティに行ってきたんだ。オードリイ?ヘプバーンやクラウディア?カルディナーレや、ソフィア?ローレンが来ていた。ベベもいたぞ。おれはカトリーヌ?ドヌーヴとロミー?シュナイダー
と、それからええと、あとは誰を抱いたっけ」
がたん、と音を立てて古賀が立ちあがった。「どうしておれを呼んでくれなかった」おろおろ声になっていた。「おれ、ロミーのファンなんだよ」
「いつだって会えるさ。そんなことはどうでもいい」おれは後藤に訊《たず》ねた。「どうだったんだ。田所《たどころ》博士の記者会見があったんだろ」
「ああ。さっき終ったところだ」おしぼりで顔を拭《ぬぐ》いながら、後藤はうなずいた。
「こいつ、ロミーを抱きやがった」古賀がすすり泣きはじめた。
古賀にかまわず、後藤は喋りはじめた。「田所さんは、ぐでんぐでんに酔っぱらっていて、何を言ってるのかよくわからなかったがね。それでも、だいたいのところは理解できたよ」
タドコロという名前に、周囲の外人たちが聞き耳を立てはじめた。後藤の喋ることを外人たちに小声で通訳してやっている日本人もいる。
「ずっと以前から全地球的に大気中の炭酸ガスの量が増えはじめていたことは知っているだろう。あれで北極と南極の氷が溶けはじめ、徐々に海面がふくれあがってきて、世界中の地表を浸しはじめた。と同時に、以前から沸騰《ふっとう》しはじめていた太平洋の下のマントル
が、さらに沸騰した。日本列島の地底のマントル対流は、太平洋からアジア大陸の下へもぐりこんでいる。これを大洋底マントルというのだが、これが沸騰したままで日本列島の下へもぐりこんできて、アジア大陸の地底から日本列島の下までのびてきている大陸底マントルと衝突
した。そこで」次第に田所博士がのりうつったような口調になり、後藤が唾《つば》をとばしはじめた。「沸騰したマントルの一部は、日本の地底にある大洋底マントルと大陸底マントルの交差点でおしあげられるような形になって地表へ噴出した。三年前、富士山、浅間《あさま
》山、三原《みはら》山、天城《あまぎ》山、大室《おおむろ》山、箱根《はこね》山、桜《さくら》島、三宅《みやけ》島、その他休火山と活火山とを問わず日本中の火山が順に噴火したのはこのためだ。ところがそれだけじゃおさまらなかった。マントルは海面がふくれあがる
速度と比例して
凵Xに日本列島全体を押しあげ、と同時に、日本海底の海盆を破壊し、日本列島の地底及び周辺のモホロビチッチ不連続面をばらばらにし、以前から年間四センチメートルの速度で日本列島へ向けて移動していた速度を急激にスピード?アップした」後藤は今や大声でわめき散らして
いた。
店内の客はいっせいに後藤を見つめ、茫然《ぼうぜん》としている。
「日本はそのマントルの大波にさからえず、アジア大陸の方へ押しやられ、ついに、すでに沈下していた中国の、大陸地塊の上へざざざざ、ざばあっ、と」後藤はグラスを散乱させてカウンターにとび乗った。「こういう具合に、乗りあげてしまったのだ」
「なんとまあ」おれはぶったまげて叫んだ。「それじゃ日本は今、地理的にはもとの場所にあるのじゃないのか」
「ややこしい言い方をするな。地理的にといったって、今じゃどんな世界地図を書いたところで海のまん中に日本列島があるだけなんだぜ」と、古賀がいった。「そりゃまあ、厳密に言えばチベットなどの高原もあるが」
「じゃ、今、日本は中国大陸の上に乗っかっているのか。どの辺だ。華北《かほく》平原のあたりか」
「しっ。でかい声を出すな」自分が大声でわめいたくせに、後藤は今さらのようにあわてておれを制し、店内を見わたした。「中国の連中が来てるんじゃないか」
「いや、さっきちょっと顔を見せただけだよ」
「ソウタ。ソレ、ヤツラニ教エテハイケナイアル」いちばん遠くのボックスで蒋介石がおどりあがった。「ヤツラ、領土権ヲ主張スルアルゾ」
蒋介石とは反対側のいちばん隅のボックスで、金日成《きんにっせい》がおどりあがった。「ニポン、シズマナイ。哀号《あいごう》、チョセン、ナゼシズンダカ。ワタシ不公平ミトメナイヨ」
「朝鮮半島だって中国大陸地塊の上にある。だから沈んだのです」と後藤が説明した。
「ソレナラコッチモ、領土権主張スル。セメテ県ヲヒトツモラウ。岩手県モラウ」
「いちばん広い県だぞ」
「人口密度がいちばん低い県だ」
「前から狙《ねら》ってやがったな」
「あんなところをとられてたまるものか」
周囲にいた朴正煕《ぼくせいき》とスハルトとグエン?バン?チューとロン?ノルが、ボックス席の凭《もた》れを乗り越えて、いっせいに金日成につかみかかった。
全員が騒ぎはじめた。
「やめてください。やめてください」マネージャーが声を嗄《か》らした。「国家の元首ともあろうかたがたが、何という乱暴な振舞いを」
「毎晩のことで、奴《やっこ》さんも大変だな」と、後藤がいった。
「たいして珍しい事件じゃないが、今の騒ぎをちょっと社へ報告しとくよ」古賀が立ちあがった。
「カコミ記事ぐらいにはなるだろう」彼はカウンターの端で、社へ電話をかけはじめた。
「そちらのかた、もう少しお詰め願います。すみません」と、マネージャーが補助椅子を運びながら叫んだ。「予約席ですので」
レーニエ三世が汗を拭いながら補助椅子に掛けた。
顔見知りなので、おれは声をかけた。「いかがでした。都知事との会見は」
彼はかぶりを振った。「どうしても賭博《とばく》場を開くのは許可できないと言ったよ。いやはや、日本のような文化国家の首都が公営賭博を廃止しているとは知らなかった。まったくひどいところだ。公営賭博を廃止したりしたら、わがモナコ公国などはどうなったと思う。
公営賭博がなぜいかんのだ」彼は次第に激しはじめた。「賭博のために堕落するような市民のいる都会なんか、都市じゃない。都市やめちまえ」今度は泣き出した。「わたしの政治理念が崩れた」
古賀が席に戻ってきた。「ヒューズがとんでる」
おれはあたりを見まわした。「だって、明かりがついてるじゃないか」
「そうじゃない。入国許可を得られなかったハワード?ヒューズが、密入国しようとして自家用機で東京上空を飛んでるんだ。高射砲で撃墜したものかどうか、今、第一師団で検討している」
壁ぎわのフォードが、ぼそりとつぶやいた。「奴さん、税関の役人に賄賂《わいろ》をケチったな」
カウンターのいちばん端にいたディーン?マーチンがいった。「ダルマをボトルで一本くれ」
バーテンがかぶりを振った。「だめだよ。あんたアル中だろ。それにもう、ボトルじゃ売らないんだ。このクラブだって、なかば配給制なんだ。ウィスキーは残り少いんでね。ほしけりゃチケットを買い集めてきなよ」
「十万ドル出そう」
「だめだめ」
「十五万ドル」
「だめだめ」
「なんとか言ってやってくれよ、ボス」と、ディーン?マーチンが泣き顔でニクソンに声をかけた。
ニクソンは肩をすくめた。「もうドルを防衛する必要はなくなったんだ」彼はいくぶん浮きうきしていた。
「まったく、こう物価が値上りしたのでは、かなわんな」後藤がぼやいた。「今日、ざるそばを食ったら三万円とられた」
「カレーライスが五万円だ。大衆食堂でビフテキがいくらすると思う。二十万だぜ」古賀がいった。「安いのは外人の女だけだ」
「宝石もずいぶん値下りしたぜ。国宝級の宝石がずいぶん持ち込まれたからな」おれは左手の薬指にはめた三カラットのダイヤの指輪を見せた。「いくらだと思う。七千八百円だぜ。オナシスが持ちこんだやつだ」
「いくら物価が高いといっても、日本人は幸せだよ。いわば貴族階級だものな。おれのいる高円寺のアパートの向かいのスナックじゃ、アラン?ドロンがボーイをやってる」
「そう言えば江古田《えごた》の八百屋でチャールズ?ブロンソンが大根を運んでいた」
「夕刊を読んだか。京都でアンソニー?パーキンスが京都女子大の生徒をモーテルへつれこんだ。出てきたところを袋叩きにされて、一か月の重傷だ」
「ふうん。じゃあ、国外追放だな」
「もちろんだ」
「日本人の女なんて、現金なもんだな。最初は外国の著名人を見て騒いだが、今じゃ見向きもしない。始めのうちは外国の有名俳優を端役《はやく》で使っていた映画やテレビも、国内タレントの出演拒否や政府の圧力がこわくて、二か月前からまったく使わなくなってしまった
ものな」
「でも、エロダクションじゃ、まだ使ってるぜ。この間ショーン?コネリーとボンド?ガール総出演のポルノを見た」
「そりゃまあ、外人の人件費は安いからな。でも、本来の職業で稼《かせ》いでる連中はまだしあわせさ。たいていはルンペンで、持ちこんできた財産だけで食いつないでいる。奴さんなどは」後藤が顎でカルダンを指した。「デザインという特殊技能で食えるからいい」
「コールドウェルとモラヴィアが、うちの社に、コラムを書かせてくれと言ってきたそうだ」
「週刊誌じゃ、カポーティやメイラーに色ページの雑文をやらせてる。それからアーサー?ミラーはポルノ映画の脚本を書いてるそうだ。ボーヴォアールも中間小説雑誌にすごいエロを書きはじめた」
おれたちはくすくす笑いながら喋り続けた。物価高や酒不足はこたえるが、記事や、酒の肴にする話題にこと欠かなくなったのはまことにありがたい。
ステージで、リヒテルとケンプが Fly me to the moon の連弾をやりはじめた時、血相を変えたブレジネフがボーイの制止もきかずに店へとびこんできて、ニクソンの横のボックスにいたコスイギンに何ごとか耳打ちした。
コスイギンが、さっと立ちあがってニクソンを睨《にら》みつけた。「月面のソ連基地を、アメリカの宇宙飛行士たちが襲って占領したという報告が入った。あなたの命令でやったことか」
ニクソンは顔色を変えた。「わたしは知りません。そんな命令、出せる筈《はず》がないでしょう。通信はずっと途絶えてるんだ。地球がこんなことになった以上、月面にいる基地設営班はこっちへ戻ってこられる見込みが永久になくなったんです。だからわたしたちはアメリカ
から避難する直前、彼らと交信して全員に因果を含めておきました。彼らの行動は、もうわたしとは無関係です」
「無責任なことをいうな。衛星船経由でいくらでも司令できた筈だ。だいいち、宇宙船が地球へ戻ってくることだって、できる筈だ」
「どこへ着陸するっていうんですか。日本はどこもかも人間でいっぱいで、そんな場所はありません。これは日本の常識です。あなたの方は、どうやって戻ってくるつもりだったのです」
「伊勢《いせ》湾へ着水するよう、いってあった」
「アメリカの宇宙船には、着水装置などという原始的なものはない」
「原始的とは何ごとだ。わかったぞ。連中、命惜しさに、着水装置のあるソ連の宇宙船を奪おうとしたな。責任をとれ」
「無関係だと言った筈だ」
「卑劣な」コスイギンがニクソンにおどりかかった。
制止しようとしたキッシンジャーに、ブレジネフがとびついた。激しい揉《も》みあいになった。今度は、もう誰もあまり驚かず、また始まったかという顔つきでぼんやり眺めている。
「アメリカもソ連も、残る領土は月面しかないというわけか。だけど月面の取りあいをしたって、どうせ今後何十年か、行けっこないのにな」後藤が溜息をついた。「日本が宇宙基地を作り、宇宙船をとばすのは、まだまだずっと先だ」
「でも、外国の宇宙科学者たちも、少数は日本へ来てるんだろ」
「ごく少数だ。科学者なんて貧乏だからな。だいいち日本は今、宇宙どころか、食糧があと何年続くのか瀬戸際なんだぜ」
「いよいよ人間を食うことになるか」
おれがげっそりしてそうつぶやいた時、バーテンが首をカウンターの向こうから突き出して、おれたちにささやきかけた。「今、ラジオで聞いたんだけど、若狭《わかさ》湾からドイツ軍が上陸してきたそうですぜ」
おれたちは顔を見あわせた。
「今度はドイツ軍か」
「東ドイツならたいしたことはないが、西ドイツの軍隊だと、ちょっと厄介《やっかい》だぞ。まあ、舞鶴《まいづる》に地方隊と第三護衛艦隊がいるが」古賀は立ちあがり、おれに訊ねた。「ところでこのニュースは政治部かね、社会部かね」
「両方だろうがね」と、おれはいった。「でもおれは非番だから」
「そうか。じゃ、おれはちょっと社へ行ってくる」古賀は店を出て行った。
「今で約五億人だ」と、後藤はいった。「こんな小さな島に、それ以上入れるものか」
「でも、沈没前の世界の人口なら、淡路《あわじ》島にぎっしり詰めこんだら何とかおさまるって話だったぜ」
「それは全員が直立している場合だ。無茶を言うな。それに人間だけじゃない。北海道にはトドの大群やシロクマがやってきた。九州にはネズミの大群が上陸した。その上日本全国どこもかしこも鳥だらけだ。渡り鳥だけじゃない。ハゲタカの大群までやってきている。農作物の
被害が大変だ」
「トドは食えるだろう。鳥だって食えるのがいる」
「そりゃあまあ、餓えればネズミだって食うだろうがね。だけど五億人だぜ。何年食いつなげると思う。あちこちで食糧の奪いあいが起ってる。昨日も罐詰《かんづめ》を買い占めた商社が焼き打ちされた」
「それに水温の急変で、魚が大量に死んだからな。魚を食う水鳥まで餓死している」
「おかげでこれ以上、汚染魚を食わなくてもよくなったが」後藤はじっとおれの顔を見つめた。
「お前の顔も、ずいぶんひどくなったなあ」
そういう後藤の顔だって、吹出物で満艦飾である。「汚染されてるのは魚だけじゃないものな。今じゃ食いもの全部にいろんなものが含まれている」
「ひどい。まったく日本はひどい」ヒースが立ちあがってわめいた。酔っぱらっていた。「こんな国は、国連が統治すべきだ」
「何言ってやがる」ローマ法王と飲んでいた日本人官僚が立ちあがり、怒鳴り返した。「そんなことされてたまるか。だいいち、今じゃ国連加盟国は日本だけじゃないか」
マネージャーがステージの方へ行き、リヒテルとケンプに何ごとか耳打ちした。ふたりはあわてて曲を「十三夜《じゅうさんや》」に変えた。日本の曲をやれと命じられたのだろう。
「毎朝」の政治部記者の上野がやってきて、古賀のいた席に腰をかけた。「えらいことだ。あっちこっちで密入国が始まってる。撃ちあいがあって、海岸はどこもかしこも血の海だ。自衛隊が、こんなことで役に立つとは思わなかった。自衛隊はまったく、よく頑張ってるよ」
「ほら、また自衛隊のPRが始まった」後藤がくすくす笑った。
「自衛隊のPRをして何が悪い。さんざお世話になっておきながら」上野はむっとして、水割りをがぶりと飲んだ。「今日も楽しく飲めるのも、兵隊さんのおかげです」
イスラエルのシャザール大統領が、拳銃《けんじゅう》を持ってとび込んできた。「ユダヤ商会が次つぎと焼き打ちされている。ここにアラヴのやつはいるか。いたら前に出ろ。片っ端からぶち殺してやるぞ」
レバノン、サウジアラビア、ヨルダン?ハシムなどアラヴ諸国の国王や大統領がいっせいに立ちあがり、わっとシャザールにおどりかかって、たちまち拳銃をとりあげてしまった。はげしい揉みあいになった。
「ユダヤ人が米を買い占めたからだ」
「こいつめ。はなせ。はなせ」
「テルアビブのことは忘れていないぞ」
店内三か所での乱闘は、いつまでも続いた。「今夜はいつもより、だいぶ騒がしい」後藤が眉をひそめた。「だんだんひどくなるな」
田所博士がぐでんぐでんに酔っぱらって入ってきた。ネクタイをだらしなくゆるめ、腕までくりあげたワイシャツは埃《ほこり》に黒く汚れていて、髪はばさばさ、顔一面を油でぎとぎとに光らせ、片手にはコーヒーの罐を持っている。
「田所博士」後藤が驚いて立ちあがり、田所博士に駆《か》け寄った。「どうしたのです」
「諸君。日本はもうすぐ終りだ」田所博士が大声で叫んだ。「もう政治機密にする必要はない。地球は、いや、人類はおしまいだ」ぐだぐだぐだ、と田所博士は床にくずおれ、さらに何ごとかをぶつぶつとつぶやいた。
店内の客が、いさかいを中断して博士の周囲に集ってきた。
「博士。博士。はっきりおっしゃってください。その後何か、新しい発見があったのですね。新事実の発見が」
「あった」後藤の問いに、博士は答えた。「わたしは、気団の動きとマントル対流の相似性に気がついたのだ。その結果、日本列島が中国大陸に乗りあげたのは、ほんの一時的な、過渡的現象に過ぎないことがわかったのだ。諸君、今のうちに酒を飲み、小便をしておいた方がよ
ろしい。太平洋側のマントル塊の対流相が急激に変化しておる。つまり太平洋からの圧力が減少するのだ。するとどうなるか。大陸地塊が太平洋めがけて大きく傾くのだ。すると、その上に乗っかっておる日本列島はどうなると思う。当然傾いて、ずるずるっと太平洋の中へすべり
こんでしまうのだ」
「浮きませんか」
「馬鹿《ばか》。浮くものか」
各国首相が騒ぎはじめた。
「それではまるでシーソー?ゲームではないか」
「これはブランコですか」
「その通り」田所博士はげらげら笑った。「大昔から地球上の陸地なんてものは、常にシーソー?ゲームやブランコをしているような状態であり、その上に住んでいる人類なんてものは、本来ならば、これほど種族としての寿命を保てた筈のないあやふやな存在だったのだ。はい。
これでお仕舞い」ばったりと俯伏せに倒れた。
後藤が博士を抱き起こした。
「死んでいる」
おれは立ちあがり、カウンターの隅へ行って受話器をとりあげた。
その時、店全体がぐらりと傾いた。カウンターにいた連中が将棋倒しになっておれの方へ雪崩《なだ》れてきた。店のあっちの端にいた連中が、テーブルやソファを抱きかかえたまま、ずるずるとこっちへ滑ってきた。
「OH」
「曖呀《あいや》」
「HELP」
「助けてくれ」
客全員が、五十度ほど傾いた店の片側の壁に押しつけられた。おれはカウンターにしがみついた。グランド?ピアノが走り出し、カウンターをぶち壊し、おれを勢いよく壁ぎわまで押しやり、ぎゃろぎゃろんという音を立てておれの腰骨を粉ごなに打ち砕いた。
その時、店内の電灯がいっせいに消え、ただ一か所の入口から轟々《ごうごう》たる水音と共に、破裂するような勢いで海水が流れこんできた。
*原典「日本沈没」のパロディ化を快諾下さった小松左京氏に厚く御礼申しあげます。(作者)