以下这片散文是由菅野洋子先生写的(我在网上找到的):
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菅野よう子
『タクシーに乗るとかなりの確立で、お仕事は何を?と聞かれる。学生さん?と、うれしく恥ずかしいお世辞が混じることもあるけれど、ミラーをチラチラと覗かれて、ワケありな人種に興味丸出しの運転手さんに当たってしまうと、なかなかつらい。
深夜1時、お風呂あがりの濡れた頭、石鹸の匂いをまき散らして、自宅から銀座方面に乗ったからと言って、お仕事大変ですね、年末なんかは忙しいんですか、どうですか、と聞かれても、、、、、。明け方外苑あたり、今日の録音の拙さに呆然としながら止めた車の運転手さんから、私にも娘がいて、不良で、変な男に引っかかって、などと打ち明けられても、、、、、。スタジオでの仕事は24時間無休、ボロボロに見えるでしょうけれど傷ついているのは心じゃなくて、才能の残高不足による、いわば気合いの問題。
それにしてもおもしろいのは、身なりと目的地のみの情報から導き出すその人となりについて、かなり幅のせまい見方をされるということだ。00スタジオにお願いします、と告げるや、歌い手もしくは声優、ラジオDJなど声の仕事と勘違いされる。私の声はかなり特徴的らしい。違いますと否定しても、じゃ何やってるのとたたみかけられてしまうから、イヤちょっとモゴモゴと語尾がひるむ。
近所にも、何をやってるのかわからない人はよくいる。特に病気なふうでもないのに平日の昼間に家にいるひと。いつも夜中に帰ってくるひと。なぜか外車の友達ばかり尋ねてくるひと。まわりにそんな人がいたら、私だって納得するまで素性を尋ねたくなるに決まってるから、あんまり文句は言えないのだ。
どうして、作曲の仕事をやってます、と正直に言えないのだろう。
いまだに女で作曲家というのは、それだけでかなり怪しげな存在に見られるのは気のせいではあるまい。きっと女流作家さんたちも似たような思いをしているのではないかしら。ピアノ弾きだの歌手だのと言ったほうがよほど<とおり>がいい。それならスッキリと、あ、そう、と納得してもらえる。音楽家と言えばさらに憧れまで混じった眼で、がんばって有名になって、オレ応援してっから、とさえ言ってもらえる。なのに、作曲家と言ったとたん、車内に居心地悪い空気が流れるのはどうしてだろう。さっきょくって何すんの?と聞いた人もいた。大月みやこの歌とか作るの?といきなりとんでもない方向から突っ込んできた人もいた。<きっとその運転手さんが大月さんのファンだったのか、その直前に彼女の曲がラジオから流れていたかどちらかだろう>
世の中のごく一般の人にとって、みんなが知ってる大月みやこさんの誰も知らない一曲を手がけることのほうが、小さな映画に世にも美しいテーマ曲を書くことの何倍も意味がある、というところに、大きなジレンマがある。曲を書くという行為は全く同じなのになあ。例に出してしまった大月さんには申し訳ないけれど。毎日、誰も知らない映画や世の中のひとから虐げられるアニメやゲーム、捨てられ消費されていくだけのCMのために、美しく印象に遺るメロディーをひねり出そうと社会生活を犠牲にしてる私は、いったいなんなんだ。世間的に未だ作曲家と名乗るにはほど遠い。
音楽なんて好きなことだけやって風来坊のように生きて、とみんなうらやましがる。楽な商売でスンマセン、と低姿勢を装いながら、こころのなかで思う。あたしらはみんな、この仕事が失敗したら明日からはない、という毎日なんだ、うまくいったときの喜びは確かに大きいけれど、ダメだったときの責任も、全部自分でかぶらなきゃいけない。誰も守ってくれないし、数ヶ月先は真っ暗闇。プロならきっと、好きなことだけを自由にやるなんてことに過剰な理想を抱けない現実を知ってる。それでも、他になーんにもできないから、音楽やってるだけなんです。
かんのようこ』