田母神俊雄:日本曾是侵略国家吗?
日本は侵略国家であったのか
田母神俊雄( 防衛省航空幕僚長 空将)
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいている からである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られ ていない。日本は 19 世 紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執 拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのであ る。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したこ とがない。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田 基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本 政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。 1936 年の第 2 次 国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊 させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって 1937 年 8 月 15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
1928 年 の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなく なった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の 1937 年 7 月 7 日 の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見 で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が 侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということに はならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の 1932 年 1 月には 3 千万人の人口であったが、毎年 100 万人以上も人口が増え続け、 1945 年の終戦時には 5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか 15 年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の 35 年間で1千 3 百万人の人口が2千 5 百万人と約 2 倍 に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本 軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も 格段に向上したのである。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また 1924 年には朝鮮に京城帝国大学、 1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が 1931 年の大阪帝国大学、9 番目が 1939 年 の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士 官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をは せた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長 であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もち ろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽も いる。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになっ た。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。こ の李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもり ならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために 1930 年に新居を建設した。 現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくで あろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギ リスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5 族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的 なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのであ る。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
時間は遡るが 、清国は 1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ 1901 年に我が国を含む 11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究 ( 秦郁彦、東京大学出版会 ) 」。また 1915 年には袁世凱政府との 4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華 21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし 4 年後の 1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華 21 箇 条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部 昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。 1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、 36 年後の廬溝橋事件の時でさえ 5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究 ( 秦郁彦、東京大学出版会 ) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し 3 百 万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込む ために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリ カの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成 18 年 5 月号に青山学院大学の福井助教授 ( 当時 ) が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは 1940 年から 1948 年までの 8 年間これをモニターしていた。当時ソ連は 1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である 1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと 37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の 1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し 1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば 1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には 3 百 人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最 後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、 我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受 け、戦闘機 100 機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第 1 撃 を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本が アメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとして も、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第 2 , 第 3 の 要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器 である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強 者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
さて大東亜戦争の後、多くのアジア 、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露 戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、 2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。 そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国 の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言って いるようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難 である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返 ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後 63 年 を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものであ る。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比 べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完 成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメ リカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域 の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親 に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこ のことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しか し私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシ アで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日 本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もあ る。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなけれ
ば ならない。人は特別な思想を 注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきた ことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中 でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみであ る。
[rairin译文]
美利坚合众国的军队是依据日美安全保障条约驻扎在日本国内的,自然不能将此说成是美国对日本的侵略。因为这是基于了两国间所达成的条约。长期以来我 国一直被指责在二战之前侵略了中国大陆和朝鲜,但是对于日本军队对上述国家的进驻也同样是基于条约所进行的事实却鲜为人知。日本自19世纪后半开始进军朝 鲜半岛和中国大陆。但是从来没有在未得到对方同意的情况下单方面地进行。虽然当今的中国政府固执地追究所谓“来自日本的侵略”,但是当时的我国通过日清战 争和日俄战争获得了在国际法上属于合法的在中国大陆的权益,为了保卫这些权益,并基于当时的条约配属了军队。对此,一部分人认为这些条约是在受到了压力的 情况下被迫签署的,所以条约应该视为无效。但无论是在过去还是在今天不伴有一定程度压力的条约是根本不存在的。
对于当时的日本驻军,蒋介石国民党频繁地进行了恐怖活动。对日本人所进行的大规模暴行以及惨杀事件层出不穷。这些现象就好比在今天的日本自卫队对驻 扎在横田基地和横须贺基地的美国军人和家属实施暴行和残杀一样,肯定是绝对不能容忍的。对上述(蒋介石国民党)的作为,当时的日本政府一再忍让坚持追求和 平,但均被蒋介石所背叛,事实上蒋介石受到了共产国际的策动,通过1936年的第2次国共合作,共产国际手下的毛泽东&&&&&&游击队派出多数人员打入了国民 党内。共产国际的目的是促使日军和国民党军队进行战争,使其两败俱伤,最终导致毛泽东&&&&&&统治中国大陆。我国在受到国民党一而再再而三的挑衅后终于忍无 可忍于1937年8月15日,近卫文麿内阁发表声明“通过惩戒支那军队的暴戾以促南京政府之反省,立即采取坚决果断的措施”。因此可以说,我国是被蒋介石 拖入了日中战争的受害者。
1928年的张作霖列车爆炸事件长期以来一直被认为是关东军所为。但是通过近年来发现的苏联情报机关的资料,至少可以表明不能肯定制造这一事件的是 日本军队。根据[毛·鲜为人知的毛泽东 张戎著 讲谈社]、[黄文雄的大东亚战争肯定论 黄文雄 WAC出版社]以及[日本、研磨你的“历史能力” 樱井佳子编 文艺春秋]等书籍,张作霖事件很有可能是共产国际的所作所为。至于1937年7月7日引发日中战争的卢沟桥事件,至今一直被视为日本侵略中国的铁证。但是 最近发现,在东京军事法庭正在进行审理的时候,中国&&&&&&的刘少奇曾对西方记者声称“制造卢沟桥事件是中国&&&&&&的当地指挥官、我本人”[大东亚解放战争 岩间弘 岩间书店]。试问如果说日本曾经是侵略国家的话,那么当时被称为列强的国家有哪一个不是侵略国家呢?当然不能说其他国家做了日本也可以做,但是仅仅将日本 视为侵略国家是毫无道理的。
我国曾经试图将满洲、朝鲜半岛、台湾和日本本土一样加以开发。在当时被称为列强的国家里,只有日本试图将殖民地转化为内地。因此,我国与其他国家相 比实施了极其稳健的殖民地统治。1932年1月,满洲帝国在成立时的人口仅有3千万,其后每年以100万人以上的速度逐年增加,1945年终战时达到了5 千万人口。可见当时的满洲十分富裕并且治安良好。按理讲受到侵略的地方又何以会使人们云集于此呢?曾经是除了农业以外几乎没有任何产业的满洲,一片荒野仅 仅在15年的期间内,日本政府使其变成了一个充满活力的工业国家。朝鲜半岛也在日本的统治下,35年内由1300万人口增加到近两倍的2500万[朝鲜总 督府统计年鉴]。日本统治下的朝鲜也变得富裕,并且是治安良好的最好证据。战后的日本,一直被说成是破坏了满洲和朝鲜的和平生活。但是实际上通过日本政府 和日本军队的努力,使当地的人民从当时的专制政治中解放出来,生活水平也得到了极大的改善。
我国还在满洲、朝鲜半岛和台湾建造了许多的学校为当地人的教育倾注了力量。并且为当地留下了诸如道路、发电站、自来水等许许多多的生活基础设施。 1924年在朝鲜设立了京城帝国大学,1928年在台湾设立了台北帝国大学。明治维新以后日本政府共设立了9所大学,其中京城帝国大学是第6所,台北帝国 大学是第7所。其后1931年建立了第8所的大阪帝国大学,第9所则是1939年建立的名古屋帝国大学。其中与大阪和名古屋相比日本政府竟是先在朝鲜和台 湾建造了帝国大学。并且当时的日本政府还允许朝鲜人和中国人考取陆军军官学校。比如战后被马尼拉军事法庭判处死刑的朝鲜出身的洪思翊陆军中将,曾经是陆军 军官学校第26届毕业生,跟硫磺岛战役中勇敢驰名的栗林忠道中将是同年级。他始终以朝鲜人名字荣升至中将。另外在他的下一届毕业生中,还有一名金锡源上 校,在日中战争中担任大队长。他率领1000多人将曾经虐待过自己国家几百年的原宗主国的中国军队打得七零八落。由于其军功卓著被天皇陛下授予了金赐勋 章。当然他也没有改变自己的朝鲜姓名。在中国,蒋介石也曾毕业于陆军军官学校并在新泻的高田连队接受过随队教育。蒋介石的参谋何应钦也是比蒋介石低一年级 的毕业生。
李王朝(朝鲜)的最后一位王子李垠殿下虽然是作为人质于10岁时来到了日本。但是日本政府将其视为皇族,在学习院大学毕业后又毕业于陆军军官学校。 最终荣升为陆军中将。李垠殿下的妃子是日本人梨本宫方子妃殿下。她本人曾经被视为昭和天皇的皇妃候选人。如果日本政府试图摧毁李王朝的话,又何以将如此高 贵的人物嫁给李垠殿下呢?顺便提一下,1930年日本宫内省还为两人建设了新居,正是现在的赤坂王子饭店的别馆。还有,日本的贵族嵯峨家的嵯峨浩皇妃殿下 也嫁给了清朝最后的皇帝、满洲帝国皇帝溥仪的弟弟溥杰殿下。这一切与当时的列强相比,可见日本对满洲、朝鲜和台湾的想法与列强的殖民地统治是完全不同的。 英国占领了印度并没有给印度人带来教育。印度人更没有进入英国军官学校的。毋庸置疑英国王室出嫁印度的事更是难以想象。荷兰、法国、美国等国亦不例外。另 一方面,日本在第2次世界大战前就倡导5族和谐,即大和、朝鲜、汉、满、蒙各民族相互交融,建立友好生活的梦想。这在种族歧视被视为极其自然的当时,可称 为划时代的事情。在第1次世界大战后的巴黎和谈,日本就主张撤销种族歧视,但被英美两国一笑了之。再看一下今天的世界,正是当时日本所主张的世界。
追溯历史,1900年清朝政府被迫善后处理义和团事件,1901年与包括我国在内的11个国家签署了最终协议。其结果,我国获得了在大清国的驻军权 并在当时派出了2600名士兵[卢沟桥事件研究 秦郁彦 东京大学出版会]。后来1915年在与袁世凯政府进行了4个多月的交涉后,在参考了中国的意见后,签订了所谓的21条对华要求。虽然有人将此称为日本对华 侵略的开始,但是这一要求,对照一下当时列强的殖民地统治的一般性国际常识,并非不可思议。而且中国也曾一度完全承诺并予以批准。可是在4年后的1919 年,被允许列席参加巴黎和谈会议的中国却在美国的怂恿下表示了对21条的不满。尽管如此,英国和法国表示支持日本[从日本史看日本人·昭和篇 渡边升一 祥传社]。当时我国在与蒋介石国民党之间未达成协议的情况下从未(单方面)进军。通常都是在得到中国方面承认的情况下才得以进军。从1901年开始配置在 北京的日本军队,到36年后的卢沟桥事件时仅为5600人[卢沟桥事件研究 秦郁彦 东京大学出版会]。当时驻扎在北京周围的国民党军队达到数十万,仅仅是在形式上也很难将此称为侵略。作为当时的象征币原重喜郎外务大臣的对华融合外交是我国的基本方针,这一点至今都没有变化。
有人说,日本为了侵略中国大陆和朝鲜半岛,最终导致了日美战争,造成了3百多万人的牺牲,最后以失败而告终,日本犯下了不可挽回的过错。但是现在看 来,这些都是美国为了将日本拖入战争而周密设置的陷阱。其实美国也被共产国际所利用了。有一个被称为Venona文件的美国公式文书载于美国国家安全保障 局(NSA)的网页。文件虽然非常庞大,但是青山大学的福井副教授(当时)在月刊正论2006年5月号上将其内容摘要介绍给我们。所谓Venona文件, 收集记录了共产国际与其在美国的国内的特工人员之间的通信内容。并且美国在自1940年至1948年的8年里以此作为监视的原始资料。由于当时的苏联采取 了每次变换暗号的手法,使当时的美国未能将其解读。令人吃惊的是(对这一文件)美国在日美战争中的1943年开始进行解读作业,直至37年后的里根政权成 立之前的1980年才得以完成。但是由于当时正处于冷战时期,美国将其作为机密文件放置起来。冷战结束后,1995年该文件的机密被解除并予以公开。根据 这一文件,诞生于1933年的美国弗兰克林·罗斯福政权内部曾经有300名的共产国际的间谍存在。其中有升任至财务部第2把交椅财务副部长的亨利·迪克 特·怀特(音译)。亨利·迪克特·怀特被认为是拟定对日最后通牒-赫尔照会的本人。他通过罗斯福总统的好友-财务部长的摩根索(音译)做工作给罗斯福总 统,迫使我国卷入了日美战争。在当时,罗斯福并没有认识到共产主义的可怕性。他通过亨利·迪克特·怀特接纳了共产国际的意见,派遣了由100架战斗机组成 的飞虎队到中国,对同日本进行战斗的蒋介石给予了强有力的支援,(飞虎队)在偷袭珍珠湾的一个半月前就在中国展开了对日秘密空袭。
罗斯福是因许下不要战争的诺言而当选美国总统的,所以对日宣战有必要引发日本首先打响第一枪。而日本则完全上了罗斯福的大当偷袭了珍珠港。那么究竟 日美战争能否避免呢?如果当时的日本接受了美国提出的、被称作所谓的“赫尔照会”的最后通牒,日美战争也许能够避免。但是考虑到当时弱肉强食的国际形势, 不难想象美国很有可能提出第2、第3个(类似赫尔照会似的)要求。其结果生在今天的我们将很有可能生活在成为白人国家所统治的殖民地日本。这样一来又有谁 来制造出汽车、洗衣机、电脑等这些文明利器呢?因此,人类历史上支配和被支配的关系都是通过战争来解决的。不可能祈求强者自己做出让步,不战者也就只能受 到支配。其结果,大东亚战争后,许多的亚洲、非洲国家从白人国家的统治下得到解放。迎来了人类平等的世界,国与国之间的问题也可以通过协商从而得到解决。 这些都是得益于日本在日俄、大东亚战争中进行的战斗的结果。如果那时没有日本参加大东亚战争,如今的人类平等将很有可能迟到一百年或二百年。因此,我们必 须感谢那些为国战斗过的先人以及为国捐躯的英灵们。正是有了他们,才可能有我们生活今天的和平幸福生活。
且说某些人将大东亚战争说成是“那场卑劣的战争”,如果没有那场战争能够实现今天和平富裕的社会吗?当时的我国领导人均被视为愚蠢,进行了不应进行 的战争,失去了许许多多日本国民的生命。战死的人们被说成是毫无代价的死。但是,回顾人类的历史可以看到问题并非如此简单。只有在今天,试图颠覆一旦确定 了的国际关系将是极为困难的。基于日美安保条约,美国在日本的首都圈内都可以保有良好的基地。即使日本提出把这些基地归还给日本,也并非可以简单的将其收 回。在与俄罗斯的关系方面,北方四岛已经被非法占领了60年以上。竹岛也一直受到了韩国的实效控制。
东京审判实际上是将那场战争的所有责任统统推到了日本的身上。其心理支配在战后经历了63年的岁月仍然迷惑着日本人。如果日本的军队强大了必将难以 控制、并会侵略别国。所以尽可能使自卫队处于难以行动的状况。自卫队不可以实施区域警备、不可以行使集团自卫权、严格控制武器使用并且禁止拥有攻击性武 器。与其他国家的军队相比,自卫队如同被多重锁链捆绑着一样。如果我国不能从这种心理支配下解脱出来,将永远不可能完成用自己的力量来保护自己的体制。只 有依靠美国来保护我们。受到美国保护的日本也将逐渐加速自身的美国化。日本的经济、金融、通商、雇用、司法等等都将逐渐接近于美国的体系。在所谓改革的浪 潮中,我国的传统逐渐受到破坏,难道日本也正处在文化大革命之中吗?日本国民将20年前于今天相比一下,究竟哪时更令人安心生活呢?日本究竟是否在向好的 方面发展呢?我并非是在否定日美同盟关系,为了维护亚洲地区的安定,良好的日美关系是不可缺少的。但是日美关系应该是如同父子般的、在需要的时候能够相互 帮助的良好关系。我认为应该改善那种类似子女过分依赖父母的关系。建立起用自己的力量保卫自己的体制,我国应该在防止侵略于未然的同时将其作为外交交涉的 坚强后盾。这些在其他国家作为非常普通的常识,在我国却难以得到国民的理解。如今相当多的人认为,我国在大东亚战争中的侵略给亚洲各国造成了难以忍受的痛 苦。但是我们有必要认识到,我们得到了许多亚洲国家对我国在大东亚战争中作出的贡献所给予的肯定性评价。在泰国、缅甸、印度、新加坡、印度尼西亚等国,对 在大东亚战争中战斗过的日本有着很高的评价。并且有许多曾经直接接触过日本军队的人们对日本军队给予了高度的评价。还必须认识到很多的人并没有直接接触过 日本军队、仅仅是道听途说了日本军队的残忍行为。日本军队的军纪与其他国家相比纪律之严明得到了许多外国人的证明。将我国称为侵略国家实在是一大冤罪。
日本是一个有着古老历史和优秀传统的出色的国家。作为日本人必须为我国的历史感到自豪。作为一个人如果不被注入特殊的思想应该很自然地热爱自己出生 的故乡和国家。作为日本,认真地看待历史事实本身就是一件非常好的事情,无需撒谎和捏造。虽然在个别的现象上存有恶行的东西。但是这些与当今的先进国家所 同样进行过地暴行和杀人是一样的。我们必须找回辉煌的日本历史,因为抹杀历史的国家将只能走向衰退
论坛里好多哈伊看到这个一定会很High。
尽管这个中将最终被撤职,但是这种观点在11区肯定很有市场,狼子野心,清算的不够!