はじまりは、中学二年の冬だった。
破れたスカートをどうにかしようとして、できなくて。
途方に暮れているところを、井上が助けてくれた。
あの後、すぐにお礼を言おうとしたけれど、
図書館にいた井上達に声をかけられなくて。
――ぷちゅん
朝倉と楽しそうに話してた井上。
そんな二人の間に割って入ることができなかったあたし。
お礼を一言伝える。
そのためだけに、次の日も、また次の日も図書館に行ったけれど、
二人は、いつも一緒に、楽しそうにしてた。
でも、“井上ミウ”が文芸雑誌の新人賞を受賞して。
図書館から二人がいなくなって。
――つぷ
そして、三年後。
高校で井上と同じクラスになれたけど、あたしのことは覚えてなかった。
朝倉と二人でいた時に見せていた笑顔も、人前では見せなくなってた。
そのことが、辛くて、哀しかったから、
井上を前にすると、全然素直になれなくて。
そんな嫌な自分を省みて、泣いて。
――つぷ
それでも変わらずに話し掛けてくれたことが嬉しかった。
お見舞いに来てくれたことが嬉しかった。
お芝居の練習に付き合ってくれたことが嬉しかった。
一緒に夕歌を探してくれたことが嬉しかった。
思い出してくれたことが、嬉しかった。
それから、朝倉のこととか、先輩のこととか、色々あったけど。
“病気のあたし”のために■■が作家を辞めたのが、とても哀しくて、
嬉しかった。
――つぷ、つぷ
心臓の病気で長期の入院を余儀なくされ、学校を辞め、渡米して。
大きな手術を受けたけど、術後の経過が悪く、もう余命を延ばすこと
さえ満足にできなくて。
日本に戻ってからは病院のベッドと診察室を往復する毎日の繰り返し。
たまに集中治療室に運ばれては死に損ない、家族の皆やお医者さん達に
迷惑をかける。そんな諦めの日々を過ごしていると……■■があたしを
見つけてくれた。
学生時代と比べすっかり様変わりしたあたしを見、驚いてはいたけれど、
あたしだって驚いた。病気になって、クラスメイトの誰一人にだってこの
病院の場所なんか教えていなかったのに。
どうして? って、問いかけようとする。でも、涙で滲んだ目でと咽喉から
漏れる嗚咽のせいで、■■の顔を見ることができない。
直後。優しく抱きしめられた。
ちゃんと呼吸できないあたしを落ち着かせるように、ポンポンと叩かれる
背中。その優しさと、久し振りに感じた人の暖かさに、あたしは人目を憚る
ことなく、泣いた。
やっと落ち着きを取り戻したあたしに、■■は鞄から、分厚い封筒を取り
出す。中身はすぐに知れた。再デビューを果たし、ベストセラーを産み続けて
いる“■■ミウ”の、新作の原稿……を、徐に彼は、あたしの目の前でそれを
ビリビリと破いてみせて、言ってくれた。「ずっと君の傍にいる」って。
だから“私”は。
――ず、ず、ず、ず
海部野志弦という女性がいた。心臓に抱えた病に蝕まれ、諦観の中で
死に至るはずだった彼女は、鹿狩雅孝という大学生と出会い幸せを得るが、
彼に浮かび上がった〈神の悪夢〉による〈泡禍〉の影響を受け、狂う。
その狂気は志弦が非業の死を迎えた後まで誰にも露見することはなく
……彼女の目論見は成り、鹿狩は彼女と共に“在り続ける”ようになった。
鹿狩雅孝――〈黄泉戸契〉の〈断章保持者〉である神狩屋の血は、他の
〈断章保持者〉が摂取すると、如何な外傷でさえ治癒が可能だ。しかし
耐性の無い一般人が服用すると、どうなるか。
「あは」
零崎人識が“血”を琴吹ななせに飲ませ、その場を立ち去り、数分後。
左目に意思の光が戻った。但し瞳の色は白く濁り、視力が回復している
かはさだかではない。
根元から失われていた指が生えた。白磁の如くシミ一つ無く、されど
腐肉のようにブヨブヨとしたそれは、左手の指と比べると些か長い。
肩まである茶に染めた髪の毛が、黒に変色した。脱色されていた髪は、
濡れたように綺麗な黒色に染まる。
「あははは」
海部野志弦という女性がいた。彼女は、婚約者にいつまでも生きていて
ほしいという願いから、自らを“人魚”に見立て、自身の肉を彼に食べ
させることに成功した。それから神狩屋は、如何なる外傷を受けようとも
死ぬことができずにいる。もしかすると、これからずっと歳を取らず、
生き続けるかもしれない。人魚の肉を食べ、数百年を生きたと言われる
“八百比丘尼”のように。
ともあれ。
間接的に人魚の肉を得ることで琴吹ななせは変質した。
“海部野志弦の記憶”が要因の一つとなったにせよ、そうでないにせよ。
結果は全く同じであっただろう。
何故ならば、そこに在るのは――
好きな男の子を捜し求める、恋する乙女(バケモノ)なのだから。
「あはははははは」
夜は明けた。放送は近い。
「あはははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははは」
「今、行くから。待ってて、心葉」