悪霊狩り ゴースト・ハント C
ラジオ・サントラ 内容(「CDジャーナル」データベースより)
『十二国記』シリーズなどでおなじみの小野不由美の作品をCDドラマ化。ホラーとはいいつつも,血とか死とかいった従来のイメージからは,少し趣を異にしており冬の夜長にヘッドホンでひとりでじっくり聴くのには最適(!?)...
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『悪霊狩り ゴーストハント』
小野不由美的恐怖
转自
http://www.kt.rim.or.jp/~m_sakai/sakai_06_03_23.htmlホラーやファンタジーといった、ややもすれば前近代的な神秘主義礼賛に結びつきがちな超自然的現象を一貫して題材に選びながらも、小野不由美という作家は常に理性を重んじる近代的自我を作品に反映させている。そこでは、自由な非現実の世界に対する憧れと、現実に対する揺るぎない肯定とが、危ういバランスを保って両立しているのである。
たとえば、本CDドラマの原作である<悪霊>シリーズにおいても、その特徴は顕著に表れている。
つまり、一方では主人公である麻衣の目を通して、現実の外にある怪奇現象や超能力といったものへの関心を提示し、実際、様々な超自然現象が起こるさまを描きつつも、もう一人の主人公であるナルには徹底した科学的な思考法を与え、常に論理的に事件の背後に潜む真相を解明しようとするスタンスをとっているのである(特にそれは、シリーズ開始時である第一作『悪霊がいっぱい』において、怪現象の正体が霊ではないことが判明するという結末が用意されていることからも如実に伺える)。
元々、怪談というものは「未知のものへの恐怖」のメタファーとして機能していることが多い。天変地異を神の怒りと捉えたり、つむじ風がかまいたちを起こしたらそれを妖怪の仕業と考えたり、不運に見まわれたら霊や土地のせいにしたり。すべては説明できない未知のものへの畏れがなさしめたことである。
時代が変わり、科学が発達した現代においても、畏怖の対象が変化しただけでその構造が変わったわけではない。たとえば、モダンホラーとして怪奇小説をベストセラー化してみせたスティーヴン・キングの小説における怪異とは、日常生活にしのびよる突発的な不幸のメタファーだし、日米で人気を得たTVドラマ『Xファイル』は(半分は従来通りの怪奇ものだが、残りは)テクノロジーの進歩に対する恐怖のメタファーに満ちあふれている。特に『Xファイル』に代表される最近のテクノフォビア(テクノロジー恐怖症)的なサイエンス・ホラーにおいては、科学技術に対する不信とオカルトの擬似科学的な言い換えが不可分に結びついており、いわゆる「トンデモ科学」な気持ち悪さが残ることが多い。
そんな中にあって、あくまでオカルトと科学をきちんと峻別し、空想に逃げ込むことを戒めてみせる小野不由美の筆致の、なんと清冽なことか(原作の第一話はもちろん、第三話「悪霊がいっぱいで眠れない」や、CDドラマの第一弾にもなった第四話「悪霊はひとりぼっち」などにおけるオカルト/超能力マニアの描き方に顕著だ)。
では、そんな小野作品における恐怖とはなんなのか。それは、隠されていた<なにものか>が明るみに出ることの怖さである。<悪霊>シリーズにおける怪現象は、それ自体の怖さはもちろん、それを引き起こしていた原因の怖さがあるのだ。それは、嫉妬だったり怨念だったり狂気だったりと、様々な形をとっているが、そこには必ず、知りたいとは思えないような不気味な「悪意」が込められている。
パズルのように、それまで与えられてきた伏線を組み合わせ、クライマックスで、その「悪意」の正体が顕わになったときの、えもしれぬ怖さ。そして、その伏線の張り方や展開のうまさが、結末の意外性を際だたせ、いやがおうにも物語を盛り上げる(そこには、学生時代、ミステリ研究会に在籍し、本格推理小説に対する愛情を育んでいたという作者のパズラー趣味が存分に生かされているのは間違いない)。
つまり、怪現象それ自体の怖さだけではなく、その背後に隠された「悪意」が露見することによる二重の恐怖感。それが小野作品の怖さなのだ。
【小野不由美氏の《悪霊》シリーズをCDドラマ化した《悪霊狩り ゴーストハント》のCDブックレット用に書いた原稿。作品解説であると同時に、私のホラー観の主張にもなっている】
在winmx上看到的……drama还是ape的`希望哪个达人能帮忙下一下
:confused: