似乎是WOWOW网上电视台才能看
注:年齢は1600年(九度山篇開始時)のもの
猿飛 佐助(18才)
(さるとび さすけ)
本編の主人公。本名鷲塚佐助幸吉(ゆきよし)。
幼い頃より猿を友として、身軽に木々の間を飛び回り、獣語を解する能力を身につけていた佐助は、甲賀流忍法の戸澤白雲斎によってその才能(=特殊能力)を見い出され、厳しい修業の末に、後に忍びの名人と言われるようになる が、その“才能”には本人も知らない秘密がある。
眞田信繁(=幸村)に仕え、猿飛の姓を賜り、生来の愛嬌と茶目っ気のある性格を愛されて股紘の臣として活 躍。
霧隠 才蔵 (18才/但し初登場時はもう少し上)
(きりがくれ さいぞう)
本名才蔵宗連(むねつら)。
浅井長政の重臣霧隠弾正左衛門直春の遺児で、後に伊賀流忍法・百地三太夫に弟子入り。火術/煙術などの“科学” 忍法を得意とし、 普段は大刀を背負った浪人姿で通す洒落者の万事派手ごのみの異端忍者。
大鷲を唯一の友にしていて、それに乗って空を飛ぶ術を使う。
三好 晴海入道 (25才)
(みよし せいかいにゅうどう)
本名・新左衛門。
身の丈六尺(182cm)の巨体で十勇士随一の剛力を誇り、四十貫(150kg)の鉄棒を振り回して、大岩でも一撃で打ち砕く文字通りの“破戒坊主”。
眞田昌幸の命で信繁の配下となり、弟・伊三とともに護衛役としてその剛力を振るう。 大の酒好きで、豪放磊楽な性格、女性に対しては純情、子供や弱いものには優しい典型的な豪傑タイプで、回りから愛される存在。
禰津 甚八(24才)
(ねづ じんぱち)
眞田家の譜代の臣で、滋野氏族の禰津家の出身。
諏訪湖の辺で育った故、山国信州には珍しく繰船・水練を得意とする。 それを見込まれて、幸村から水軍の編成を命ぜ られ、旧武田水軍を復活させ、その船で望月、海野と共に大陸へ渡る。
望月 六郎(24才)
(もちづき ろくろう)
眞田家の譜代の臣で、滋野氏族の望月家の出身。
組打ちの名手で、素手での戦いでは十勇士随一と言われる。海野、禰津と共に大陸に遊学、中国拳法と沖縄の"手 "を身に付けて帰国し、ヌンチャク、多節棍、多節鞭、トンファなども使いこなす。
海からの上陸作戦では、木製の武器や素手での殺法が極めて有効なことから、禰津の水軍と協力して現代の海兵隊に あたる上陸奇襲部隊を組織する。
穴山 小助(25才/初登場時はもう少し上)
(あなやま こすけ)
武田の重臣だった穴山家の一族。
武田騎馬軍団の流れを汲み、馬術の名人であったが長篠の合戦での敗北後、鉄砲の修練を積み、百発百中の腕とな る。
伯父にあたる穴山梅雪の裏切りが武田家滅亡の大きな要因になった事を恥じ、家康暗殺に生涯、執念を燃やし大坂・ 冬の陣では“九度山衆”と言われる根来の鉄砲隊を率いて前田勢などを苦しめ、夏の陣では自ら幸村の影武者を買って出て奮戦する。
三好伊三入道(為三入道/いず伊豆入道とも)
(23才)
(みよし いさにゅうどう)
三好晴海入道の弟で本名・新三郎。
兄と同様の剛力に加え、宝蔵院流の槍、長刀、鉾、戟などの長柄の武器を巧みに使う。
兄とは異なり、真面目で穏やかな性格だが暴れだすと兄以上に手がつけられなくなる。関白・秀次の一族が処刑され た際、難を逃れ生き残った愛妾の姫を守り、後に主君・幸村に引き合わせる。
由利 鎌之助(22才/初登場時はもう少し上)
(ゆり かまのすけ)
イワン雷帝の専制下で弾圧され、シベリア併合によって東方へ移住したロシア貴族の末裔で、本名はユーリ・カマノ フスキー。
雷帝の死後、国外へ脱出し出羽国へ漂着し、出羽三山の修験者に助けられる。金髪、碧眼で山賊まがいのことをやっ ていたので、「天狗」と間違われ、そこで退治にやってきた佐助らと出会う。佐助に眞田の臣下になれるよう懇願し、 由利鎌之助の名を賜う。
海野 六郎(25才)
(うんの ろくろう)
眞田家の譜代の臣で滋野氏族の海野家の出身で、侍大将海野太郎左衛門の甥。
十勇士の中では軍師タイプで、学問に懲り、発明を得意とする。 幸村の九度山蟄居中、その命で、望月、禰津と共に 大陸へ渡り、その時得た知識を基に亀甲船/五雷神砲(多銃身銃)/装甲車/熱気球/反射式太陽炉を応用した熱線砲 などを発明する。
筧 十蔵(25才/初登場時はもう少し上)
(かけい じゅうぞう)
伊勢の出身で神道に通じ、渡り巫女や伊勢購などを利用した独自の情報網を持つ。
また弓の名手として名が高く、特に短弓の速射術にすぐれている。昌幸の正室・山之手殿の養父・菊亭大納言晴季に 仕え、公家や天皇家の意向を幸村に伝える役目をもっていたが、後に十勇士に加わる。有職故実に詳しく、交渉ごとに 長け、幸村の密使として外交面で活躍する。
眞田 左衛門佐幸村(33才)
(さなだ さえもんのすけ ゆきむら)
一代の謀将であった眞田昌幸の長男として 永禄10(1567)年に生まれる。
本名・眞田源二郎信繁。九度山蟄居の際に幸村と改名。少年?青年期に滝川一益、上杉景勝、豊臣秀吉の人質とな り、 当時の最高軍学を身につけ、後の名軍師・眞田幸村を形成する。
関ヶ原の戦いでは上田城に徳川秀忠軍を迎え撃ち、秀忠を遅参させるが、西軍敗北の為、紀州九度山に配流される。 蟄居中も、いずれ関東と大坂が手切れになると読み、再起の為の準備に十勇士を全国に派遣し、情報収集を行う。
慶長19年、秀頼に招かれ大坂城に入城。城外に出丸“眞田丸” を築いて徳川方を苦しめる。
眞田 安房守昌幸(53才)
(さなだ あわのかみ まさゆき)
幸村の父で、二度にわたって徳川の大軍を撃ち破り、日本の諸葛亮と唄われた名将。
武田の武将、眞田幸隆の三男に生まれ、幼い頃より武田家に人質として出仕。信玄の薫陶を得て頭角を現し、武田一族の武藤家を継ぎ、武藤喜兵衛と名乗る。“武田二十四将” の一人に数えられ、信玄からは「わが両眼ごとき者」とまで賞された。
天正13年、徳川軍7,000を上田城に迎え、信幸/信繁らわずか1,200の寡兵にも係わらず奇略を以ってこれを撃退。一躍武名を天下に轟かせる。