日本のマンガは「MANGA」としてアジア、ヨーロッパ、アメリカに深く浸透し、今や世界を席巻している。英語という「世界標準言語」を使用しているアメリカンコミックの方がはるかに有利なようなのに、なぜ世界はアメリカンコミックではなく日本のマンガの方を選択したのだろうか?
結論を先に言うと、その原因となったものは次の2点に尽きると思う。日本マンガは出版に際して使用した紙の質が非常に悪かったということ。それともう一点は日本マンガは出版社の質が、アメコミの出版社と比べて非常に高かったことだと思う。
戦前の児童文化の総本山である講談社の「少年倶楽部」を見ると、誌面構成はまだ読み物や小説などの活字が多く、その中に漫画が挟まっているような状態だった。小説の執筆陣には一流の小説家が名を連ねている。その同じ雑誌に『のらくろ』などの漫画が掲載されていた。
このような状態はアメリカでは考えられないことだった。文芸出版社の雑誌で子ども向けとはいえアメリカの一流の小説家とアメコミのスパーヒーロー物の漫画が同じ誌面を飾るということはありえない。この両者のジャンルは天と地ほども違うものだった。
一方日本の出版社は漫画家に対して小説家に対するのと同じ態度で接した。つまり単行本として出版すればきちんと印税を支払い、作家として遇したのだ。
「紙の質が悪かった」から、そのことが世界に飛躍する原因となったとの説には疑問を持たれる方が多いと思うが、日本の漫画週刊誌で『少年…』と冠される雑誌の紙質は昔もそして(大分改良されたが)今も非常に悪い、出版物の中でも最低の再生紙を使用していると言える。
このことでどんなよい可能性が生まれるのか?
アメコミ雑誌はその誕生から一貫してカラー印刷で紙の質も日本の漫画週刊誌よりもいい。「こちらの方が断然いい」と思われるかもしれないが、意外な落とし穴があった。それはカラー印刷なのでその安い販売価格に対してページ数を増やすということはできないということだ。その結果、わずか30数ページの雑誌の形式になる。
日本の漫画週刊誌は黒一色刷で紙の質も悪いとなるとページ数を増やしても価格には響いてこない。ちばてつや氏が多用した手法、例えば朝主人公が起きて洗面所へ行き歯を磨くという一連の動作を多数のコマを使って細かく描いた。このことで読者が目を追うコマの流れに時間のリアリティーが生まれる。アメコミの雑誌ではせいぜい朝起きたところか歯を磨くところのどちらかのひとコマしかとれない。
アメコミの雑誌は、連載モノが1作品か数品しか載せることができない。日本の場合は電話帳のような分厚い雑誌に10作品以上の連載モノが掲載できる。このことから次の結果が生まれた。
雑誌の売り上げに大きなインパクトを与える作品はせいぜい3本ほどの強力な連載作品があればいい。残りの連載作品は新人を多数起用できるし、さまざまな実験ができる。その試行錯誤の中から新しい光を放つ作品が生まれ、雑誌売り上げに貢献できるラインアップに加わることができる。
このように日本のマンガはアグレッシブで流動的でホットなものだった。漫画家も出版社も常に時代の潮流を敏感に感じ取り、この世の森羅万象あらゆるできごとの可能性をマンガのコマの中にたたき込んだ。
コミックスの単行本売り上げが1000万部を超えると億の金を手にするのも夢ではないとなると、かつては小説や映画の世界に進んでいた才能ある者たちが数多くこの世界に入り込み、魅力あるマンガ作品をどんどん創りあげていく。
アメリカの場合は日本と反対の方向へ才能ある若者が流れていった。つまり視覚的な創造を行おうというもの、優れた物語を生み出そうというもの達は皆映画の世界ハリウッドへ向かって行った。
アメリカのコミックの世界はどうかというと、新人が作品を持ち込んでもその作品が雑誌に掲載されるということはまったくありえないと言っていい。32ページの誌面にさまざまな実験作品を載せる余裕はなかった。
アメコミの購買読者である子どもたちは、何も常にスーパーヒーローのことを考えているわけではないだろう。学校や家庭でのいろんな悩み、社会やこの世界に対していろんな夢や希望があるに違いない。
悩める若者を主人公にして生まれたのが『スパイダーマン』を擁する『マーベル・コミック』だったが、やはりスーパーヒーローを主題としたものにすべての題材を詰め込むというのも無理がある。
非常に短い雑誌のページ数のため、普通の少年や人物を主人公にしてさまざまなテーマの連載作品を載せるという日本のマンガ方式はとれない。どうしても特異なヒーロー物ということになってしまう。日本・アメリカどちらのコミックが世界に受け入れられるかという勝負がこの辺で、もうついてしまったようだ。アメコミも世界中にファンはいるがそれはマニアであって一般大衆とは言いがたい。
アメリカンコミックがなぜスーパーヒーロー物に固執しているかというと、雑誌のページ数のほかにもう1つ理由がある。
それは出版社が著作権を独り占めするために好都合だということだ。スーパーヒーローを題材としたコミックは1人の作者によってずっと描き続けられたものではない。何人もの漫画家、スクリプトライター(台本作家)によってそのキャラクターを受け継ぎ描き続けられたものだ。
このことを理由に出版社側は「その作品の制作者側には著作権はない」としている。このことがアメリカンコミックの発展と質の向上に大きなネックとなっている。コミックは出版社という工場で次々とでき上がる製品ではない。ジャズや他の文化と同じように非常に数少ないアメリカ発祥の芸術形式なのだ。
そこには創作といういう問題がある。日本のように原稿料と著作権料がきちんと漫画家の方に保証されるということを前提にして始めて可能になることがある。それは困難で危険な自己の魂の奥深く潜行して、その深い底の方から宝物を探し出しつかみ取り、それを陽のあたる現実の世界へと持ち帰る行為(=創作)ができるのだ。自己の魂の奥深いところから持ち帰った宝物ほど国境を超えて普遍的な作品となる。
アメリカンドリームという言葉はコミックに限りアメリカにはなく日本にあったようだ。いくら優れたコミックアーティストがいたとしても、その報酬が手間賃としての稿料だけで利益は全部出版社が持っていくというのであれば、その創作意欲はやがて萎(な)えていくだろう。
『スパイダーマン』や、そのほか一連のスーパーヒーロー物の映画化によってスクリプトライターで出版社側のスタン・リーは数百万ドルに及ぶ映画化権料を手に入れたが、肝心の絵を担当した数多くの漫画家にはその金は渡っていない。
1990年代初めにイメージ・コミックという出版社が現れ、出版社が著作権を持つというこれまでの慣例を打ち破り原作者に著作権があるという形態でスタートした。『スポーン』というヒット作を出したが、まだアメコミの出版界では主流ではなく、異端児であるとの認識は変わらない。