引用
最初由 山文京伝 发布
おやおや ずいぶん御久し振りだな けむりくん おまえはこのごろとこへいきちゃったの
お前の言うとおりです おれたちはたしかににほんじんじゃないから
いくら必死に勉強しでも 本当の日本人と比べると やや違和感がしていますね
お久しぶりです。確かに先回ここの所に行った最後の場合から、かなり長い時間が経ったらしい。3ヶ月ぶりで皆さんは相変わらず元気で盛り上がっていると見れば、これは何よりも私を心地よくさせるものだと思います。これからもそのにぎやかさと爆笑精神を引き継いで欲しく、いつも楽しんですべてを立ち向かっており、ピンピンしていられればいいのです。
さって、日本語の勉強については、実は自ら思うほどの難しさじゃないと私がそう思っていますが、それは日本語の限りではなく、ほかの外国語も同じで、ただの語感と「環境」問題だと思います。「環境」というのはつまり暮らし場所です。起きるから寝るまで、一日中何かを聞き得たか何かを覚えたかと自然に頭の中に入り込んだので、月日の積み重ねにつれて、また自然にさまざまの言葉遣いが身につけられたもんだ。その後、ぺらぺらとあの言語を流れ出すのはまた自然だろう(笑)
だから、あんな環境で暮らしてなかったら、あの国の言葉がどうもうまく話してられないのはどう見ても可笑しくなさそうです。むしろ、かなり流暢げに喋るのは本土の人間にとっては驚きほど不思議なことだと思っており、「えぇぇ~すごいね」とは普通そう称えるはずですが、特に日本人が必ずそうします。それにしても、日本語をうまく話してる外人と本土の日本人と比べれば、あくまで小さな違いがしており、時折その違いが小さすぎで、言葉になれなくて、ただ心から浮かんできたある直感という気配がしています。それは何年の経ちでも変わりにくいもんです。でも、それはまた分かり切ったことです。どんな国の言葉でも必ず本土に根ざしており、本土の文明を載っており、その種族の文化の受け皿にしているではないか。本土の人たちは幼い頃から不自覚でその文化に染みられ、躾けられ、段々体の一部分になったのでしょう。それこそ「母語」というものがどうしてほかの外語と違って特別な存在なのでしょうか。
多分、それは人々なんで「烙印(らくいん)」という言い方で自分の血統を示す理由ではないのでしょう。