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[分享]十二国記シリーズ 東の海神 西の滄海

楼层直达
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2005-08-08
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【このテキストについて】

底本:「十二国記 東の海神 西の滄海」講談社X文庫WhiteHeart
1995年6月5日 初版第1刷発行
1996年5月10日 第9刷発行

底本の誤字等
2211行目:「沢沼地」は「沼沢地」?
3414行目:「笑い草」→「笑い種」?


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」


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序章



 世界の果てには|虚海《きょかい》と呼ばれる海がある。この海の東と西に、ふたつの国があった。常には交わることなく、隔絶されたこの二国には、ともにひとつの伝説がある。
 ──海上遥か|彼方《かなた》には、幻の国がある、と。
 そこは選ばれた者だけが訪ねることのできる至福の国、|豊穣《ほうじょう》の約束された土地、富は泉のように|湧《わ》き、老いも死もなく、どんな苦しみも存在しない。一方の国ではこれを|蓬莱《ほうらい》と呼び、もう一方の国ではこれを|常世《とこよ》と呼んだ。
 互いに異界に隔絶されたその二国、蓬莱国と常世国の双方で、ひとりの子供が目を覚ました。──ともに深夜のことである。

   ※

 彼はふと、話し声で目を覚ました。|暗闇《くらやみ》の中、ぼそぼそと声が|這《は》う。父親と母親の声が家の外から聞こえたのだ。
 家といっても、四本の棒の間、壁と屋根の代わりに|筵《むしろ》を張っただけの粗末なものだ。寝床は土の上、虫の|音《ね》が盛んな頃だけれども、くるまる布さえない。間近の兄姉の体温だけがよすがの寝床だった。以前住んでいたのはもっとましな家だったが、その家はもうない。|焦土《しょうど》と化した都の隅で灰になってしまった。
「……しかたない」
 父親の声は低い。母親は、でも、と口ごもった。
「そりゃあ、一番下だけれども、あの子は|聡《さと》いから|怖《こわ》い」
 彼は闇の中でぴくりと体を震わせる。自分のことを話しているのだと分かって|眠気《ねむけ》が飛んでいった。
「だが……」
「分別もあるし、知恵もまわる。同い年の他の子は、まだろくにしゃべれもしないっていうのに。まるでどこかから下されたみたいで」
「そりゃあ、そうだが。しかし、それにしたってまだまだ子供だ。きっとなにが起こったか分からんさ」
「そうじゃなく。あの子を死なせたら|祟《たた》りそうで」
 子供は|襟《えり》をかきあわせる。暗闇の中で小さく丸くなって眠ろうとした。ふたりの声を聞いていたくなかった。彼は生まれてまだ四年と少ししか|経《た》っていなかったけれど、何の話なのか分かってしまったので。
 声は続いていたが、彼は|強《し》いて聞かないようにした。意識から追い出して、無理にも眠りに落ちていく。

 父親が、坊、と顔をのぞきこんできたのは、その二日後だった。
「お|父《とう》は用事に行く。坊もいっしょに行くか?」
 どこに、とも、なんで、とも彼は|訊《き》かなかった。
「うん。いく」
 そうか、と父親はどこか複雑そうな表情で手を差し出した。彼はその手をしっかり握った。大きな手のごつごつした感触に包まれて、家を離れ、一面の焼け跡を歩いた。|衣笠山《きぬがさやま》からさらに奥に分け入り、斜面を何度も登り降りして、さすがの彼もどこから来たのか分からなくなった頃に、父親はやっと手を放した。
「坊、ここにいろな。すぐに戻る。待ってろ」
 うん、と彼はうなずく。
「いいか、動くんじゃねえぞ」
 うん、ともう一度うなずいて、何度も振り返りながら林を去っていく父親の背を見送った。
 ──動かない。かならず、ずっとここにいる。
 彼は|拳《こぶし》を握って、父親が姿を消した方向を見つめていた。
 ──ぜったい、家にかえったりしないから。
 その誓いのとおり、彼はその場を一歩も動かなかった。夜になればその場に眠り、ひもじくなれば手の届く範囲の草をむしって根を掘った。飲むものは夜露でこらえた。三日目には、動きたくても動くことができなかった。
 ──大丈夫、ぜったい、もどったりしない。
 戻れば両親が困ることを、彼は理解していた。
 都は燃えつき、あたりは死者の|骸《むくろ》で敷き詰められた。父親を|雇《やと》っていた男は西軍の|足軽《あしがる》に殺された。職もなく、家もない一家がこの先生きていくためには、働くこともできず、ただ食べるだけの子供を、ひとりでも減らさなくてはならないのだ。
 彼は目を閉じ、意識が混濁するにまかせた。眠りに落ちる前に獣が草をかき分けるような音を聞いた。
 ──ここで、待ってる。
 一家がなんとか生き延びて、落ちついて、幸せになって、それでふと彼のことを思い出して、|弔《とむら》いのためにやってきてくれるのを待っているから。
 いつまでだって、待っているから。

   ※

 彼は夜中に目を覚まして、人の話し声を聞いた。眠くて眠くて、どんな話だかは聞き取れなかった。ただ、母親がみんなから責められているのだということだけが分かった。助けてあげなきゃ、と思いながらまた眠りに引き込まれてしまった。
 その翌日、母親に手を引かれ、子供は|里《まち》を出た。
 彼には父親がいない。母親は、父親は遠くの国へ行ってしまった、と教えてくれた。住んでいた|廬《むら》が焼け、母親と彼は里に行って、里の隅の土の上で眠るようになった。たくさんの人間が集まっていたが、ひとりずつ欠けていって、やがてはほんの数人になった。子供は彼だけだった。
 母親を除く|大人《おとな》たちは、彼に冷たかった。いつも邪険に|殴《なぐ》られ、冷たい言葉を浴びせられた。特に彼がひもじいというと、必ずそうなのだった。
 母親は彼の手を引き、声を殺して泣きながら、焼けただれて荒れ果てた|田圃《たんぼ》の中の道を歩いた。やがて山に入り、林の中を分け入っていった。こんなに遠くまで、彼は来たことがなかった。
 林の中で、母親はやっと彼の手を放した。
「ちょっとここで休もうね。……水はほしくない?」
 |喉《のど》が渇いていたので、彼はうなずいた。
「いま水を探してくるから。ここで待っていておくれねえ」
 歩くのにも疲れていたので、母親がいなくなるのは不安だったけれど、うなずいた。母親は何度も彼をなでて、そうして突然離れると、小走りに林を駆けていった。
 彼はその場に座り込み、やがて母親が帰ってこないのに心細くなって、母親を探して歩き出した。母親を呼びながら、つまずきながら林をさまよったけれども、彼には母親の|行方《ゆくえ》も帰り道も分からなかった。
 寒かった。ひもじかった。いちばん|辛《つら》かったのは喉が渇いたことだった。
 泣きながら母親を探して歩いた。林を出て海岸に沿って歩き、やがて日も暮れる頃に彼はやっと里を見つけた。母親を探して里の中に駆けこんだが、見慣れない人々に出会っただけだった。どうやら違う里に来てしまったようだと、それだけが分かった。
 男がひとり、彼の側に寄ってきた。泣きじゃくる彼から事情を聞いて、頭をひとつなでてくれ、水と食べ物をほんの少し与えてくれた。
 それから男は周囲の人々と目を見交わし、彼の手を引いた。彼がこんど連れていかれたのは海の|縁《ふち》だった。青い海の向こうに、壁のように高い山がずっと続いているのが見える。|崖《がけ》の突端まで来ると、男はもう一度彼の頭をなで、ごめんよ、とつぶやいて、彼を崖から突き落としたのだった。

 彼が次に目を開けたとき、暗い穴の中にいた。潮の匂いがぷんとして、それに混じって|嗅《か》ぎ慣れた腐臭がした。それは死体の臭いだ。彼はあまりにそれに慣れていたので、特に|怖《こわ》いとも思わなかったし、不審も感じなかった。
 濡れた体がただ寒く、ただ寂しかった。近くで何かが身動きする音がしたので、そちらを見やったが、暗闇のせいで、小山のような影が見えただけだった。
 彼は泣いた。怖かったのはもちろんだが、やはりなにより寂しかったのだ。
 ふいに腕になま温かい息がかかった。彼がぴくりと震えると、次いでふわふわしたものが腕をなでた。鳥の羽毛の手触りにそれはよく似ている。この暗い場所には何か大きな鳥がいて、それが彼の様子をしきりにうかがっているのだった。
 驚きのあまり彼が体を硬直させていると、それは温かな羽毛を押し当ててきた。まるでくるむようにして翼の中に抱え込む。あまりにそれが温かかったので、彼は羽毛にしがみついた。
「|阿母《おかあさん》……」
 ただただ母親を呼んで泣いた。

   ※

 ──虚海の果てには幸福があるはずではなかったか。
 蓬莱も常世も結局のところ、荒廃に苦しむ人々が|培《つちか》った切なる願いの具現に過ぎない。
 虚海の東と西、ふたつの国で捨てられた子供はのちに|邂逅《かいこう》する。
 ともに荒廃を背負い、幻の国を地上に探していた。



一章



   1

 ──|折山《せつざん》、という。
 天を貫く|凌雲山《りょううんざん》の、その巨大な|峻峰《しゅんぽう》でさえ折れようかというほどの荒廃。
 |六太《ろくた》は呆然と山野を見渡した。かつて一度見たこの国は、これ以上|荒《すさ》む余地などないかのように見えたのに、以前よりさらに|酷《ひど》いこのありさまはどうだろう。
 薄く雲を浮かべた空は高い。残酷なほどの明るい空の下、夏が来ようとしているのに、地上には緑も|紅《くれない》もありはしない。砂漠のように荒れ果てた農地。小麦が緑の海を作っていなければならないのに、麦はもちろんのこと、はびこる雑草までもがない。ひび割れた大地と、そこにまばらに立ち枯れてそよぐなんとも知れない草は、いったいいいつ枯れたのか、暖かな黄味さえ失っている。
 |畦《あぜ》は崩壊し、|廬《むら》のあった場所にはただ地所を囲む石垣があるばかり。その石垣もあちこちが壊れ、黒々と|焦《こ》げ、さらにはそれが風雨にさらされ、くすんだわびしい色を|晒《さら》している。
 丘の|麓《ふもと》に見えるのは|里《まち》。里の隔壁もまた崩壊し、中の家々もわずかの|瓦礫《がれき》になってしまっている。廬を守り、里を守る樹木の一本さえ残ってはいなかった。火にあぶられて|燻《いぶ》し|銀《ぎん》の色に変じた|里木《りぼく》だけが里の奥にぽつんと立って、その気の根元にいつまでも身じろぎさえせず幾人かの人影が座りこんでいる。まるで置かれた石のように、誰ひとり動かない。
 その里木の上を数羽の鳥と、それより多い鳥に似た妖魔が旋回していた。里木には葉も花もつかない。ただ白いだけのまばらな枝ごし、上空から妖魔が|狙《ねら》っているのが見えていないはずはないのに、誰ひとりそれを振り仰ぎもしない。里木の下にいる生き物を獣も妖魔も襲わない。だからといって、無視できるものだろうか。もはや妖魔に恐怖を抱くこともできないほど、その人々は|疲弊《ひへい》しているのだ。
 山の緑は焼きつくされ、川は|溢《あふ》れ、廬という廬、里という里が|灰燼《かいじん》に帰した。すでに実りを望める土地はなく、その荒れ果てた土地に|鍬《くわ》を入れようとする民もいない。翌年の実りを期待して働くには、彼らはあまりにも疲れ果てていた。鍬を握ろうにも|飢《う》えた手には力が入らず、ましてや助け合って体を支えあうほどの数もない。
 旋回する妖魔のほうもその翼が|萎《な》えがちだった。妖魔もまた飢えているのだ。見守る六太の目の前で一羽が落ちる。魔物でさえ食い荒らすことのできなくなった荒廃だけがそこにはある。
 折山の|荒《こう》、|亡国《ぼうこく》の|壊《かい》。
 ──この|雁州国《えんしゅうこく》の、あたかも|終焉《しゅうえん》のような。

 先帝は|諡号《しごう》を|梟王《きょうおう》という。即位して長く善政を|布《し》いたが、いつのまにその心に魔がきざしたのであろう、やがては民を|虐《しいた》げ、悲鳴を聞いて|悦《よろこ》ぶようになった。町の角ごとに兵を置き、これを|耳目《じもく》として、王の不満を言うものがあれば即座に捕らえて一族縁者に至るまでを街頭で処刑させた。反乱があれば水門を開けて一里を水中に沈め、あるいは油を流しこんで火矢を放ち、|嬰児《えいじ》に至るまでを殺しつくした。
 一国の諸侯は九。心ある諸侯は王によって|誅殺《ちゅうさつ》され、もはやとどめる者もない。
 これに心を痛めた|宰輔《さいほ》が死病の床に|就《つ》くと、天命はつきたと自ら|傲然《ごうぜん》と言い放って、自己のための巨大な|陵墓《りょうぼ》を建設させた。|役夫《えきふ》をかき集め、二重の長大な|濠《ほり》を掘らせ、掘りあげた土砂と惨殺した役夫の死体で見上げるほども高さのある広大な陵を築いてみせたのである。死後の後宮に|侍《はべ》れと、殺された|女子供《おんなこども》はその数十三万とも言われる。
 梟王が|弊《たお》れたのは陵墓の完成間際、すでに国は荒廃し、|塗炭《とたん》の苦しみに|喘《あえ》いでいた万民は、|崩御《ほうぎょ》の知らせを聞いて声を合わせて|快哉《かいさい》を叫び、その声は他国にまで届いたという。
 民の期待は次王に向かったが、次王はついに|登極《とうきょく》しなかった。この世では王は|麒麟《きりん》が選ぶもの。|神獣《しんじゅう》麒麟が|天啓《てんけい》をうけ、天意にそって王を選ぶ。選んでのちは王の臣下にくだり、間近に控えて宰輔を努めるが、その宰輔が、王を探し出すことのできないまま三十余年の天寿つきて弊れてしまったのである。|開檗《かいびゃく》以来、八度目の大凶事であった。
 王は国を統治し、国の|陰陽《いんよう》を整える。王が|玉座《ぎょくざ》にいないだけで、自然の|理《ことわり》は傾き、天災が続く。梟王によって荒廃した国土は、この凶事によってさらに荒廃した。すでに人々は悲嘆を叫ぶ余力もなかった。
 ──そしてこの荒廃がある。

 六太は丘に立ったまま、視線を転じて|傍《かたわ》らに立つ男を見上げた。男はただこの荒土を眺めている。
 六太は号を|延麒《えんき》という。子供の姿をしていても、その|本性《ほんせい》は人ではない。この雁国の麒麟、傍らの男を王に選んだ。
 ──国がほしいか。
 六太はこの男にそう|訊《き》いたが、国は傾き、すでに治めるべき土地も民もないに等しい。
 ──それでもよければ、おまえに一国をやる。
 ほしい、と言い切った男は、いまこの|廃墟《はいきょ》と化した土地を見て何を思っているのだろう。よもやこれほどの荒廃とは思っていなかったにちがいない。
 嘆くか、怒るか。──そう思って見上げた男は、見つめる視線に気がついたのか、ふいに六太を振り返った。そうして笑う。
「みごとに何もないな」
 六太はただうなずいた。
「無から一国を|興《おこ》せということか。──これは、大任だ」
 いっこうに難儀を感じていない調子でそう言う。
「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」
 男はあっけらかんと声をあげて笑った。
 六太は|俯《うつむ》いた。なぜだか、泣きたい気がしたからだ。
 どうした、と|訊《き》いてきた声がおおらかで温かい。六太は大きく息を吐いた。押しつぶすほどの重量で肩にのしかかっていたものがあったことをやっと知った。それが消え去ったいまになって。
 さて、と男は六太の肩に手をのせる。
「|蓬山《ほうざん》とやらに行こうか。大任をもぎとりに」
 もはや肩に感じるのは男の|掌《てのひら》の重みだけ。生を受けて十三年。十三年ぶんの命が背負うにはあまりに重い一国の運命を、任せるべき相手に|委《ゆだ》ねることができたのだ。──それが良きにしろ悪しきにしろ。
 六太は軽く肩を叩いて離れてゆく男を振り返る。
「──頼む」
 何を、とは言わなかったが、男はただ笑った。
「任せておけ」

   2

「……緑になったよなぁ」
 |六太《ろくた》はぼんやり|宮城《きゅうじょう》の|露台《ろだい》から雲海越しに見る|関弓《かんきゅう》の緑に見入っていた。
 新王|登極《とうきょく》から二十年。国土はなんとか復興に向かいつつある。
 |雁州国《えんしゅうこく》、その都、関弓山。王宮である|玄英宮《げんえいきゅう》はその山の頂上にある。一面に広がる雲海の中に浮かんだ小島である。
 空の高所には雲海があってこれが天上と天下を|隔《へだ》てる。天下から見上げても水のあることは分からない。|凌雲山《りょううんざん》の山の|頂《いただき》に打ち寄せた波頭が白く雲のように見えるだけだ。天上から見ればうっすらと青みを帯びた透明な海、その深さはほんの身の丈ほどに見えるのに、|潜《もぐ》ってみてもとうてい底にはたどりつけない。その雲海の水を|透《す》かして地上が見えた。小麦が作る|碧《あお》い海。山々によみがった緑、|廬《むら》や|里《まち》を守る木々。
「二十年でこんだけ、って言い方もできるけど」
 六太は|手摺《てすり》に両腕をのせて、腕の間に|顎《あご》を埋めている。雲海の水が|露台《ろだい》の脚にぶつかり、音を立てて崩れては潮の匂いを打ち寄せていた。
「──|台輔《たいほ》」
「ま、こんだけでも上出来か。玄英宮に入ったときには真っ黒な地面以外、なーんも見えなかったもんなぁ……」
 かつては一面の|焦土《しょうど》だった。二十年をかけてとりあえず緑が目立つ程度には、国は立ち直り始めている。他国に脱出していた人々も徐々に戻って、農作業する人々が声を合わせて歌う声が年ごとに大きくなっていた。
「台輔」
「──んあ?」
 六太は手摺に|肘《ひじ》をついたまま振り返った。書面を持った|朝士《ちょうし》がにっこり笑う。
「おかげさまをもちまして、今年の麦は良い出来のようでございます。台輔におかれましては、ご多忙のさなかにまで下界へのお気遣い、民に代わってお礼申しあげますが、|拙官《せつかん》の奏上にもいま少しお気遣いいただけますと、さらに|嬉《うれ》しく存ずるのでございますが」
「聞いてるって。どんどん続けて」
「失礼ながら、いま少し|真摯《しんし》にお耳をお貸し願えないでしょうか」
「まじめ、まじめ」
 朝士は深い|溜《た》め|息《いき》を落とした。
「そのように子供じみた格好をなさらず、せめてこちらをお向きください」
 六太が腰を下ろしているのは露台に置かれた|陶《とう》の|獅子《しし》の頭の上で、これはいささか椅子には高い。気がつけばもてあました足をぷらぷらと揺すっては|欄干《らんかん》を軽く|蹴《け》っている。
 六太は背後に向き直って、にっと笑ってみせた。
「おれ、まだ子供だしー」
「|御歳《おんとし》お幾つにおなりで?」
「三十三」
 |齢《よわい》三十を過ぎた地位のある男のすることではないが、外見ならば十三かそこらに見えるだろう。別段奇異なことではない。雲海を見下ろして暮らす者は総じて歳をとらないものだからである。六太に限り、もう少し歳をとってもよかったはずだが──|麒麟《きりん》は普通、十代の半ばから二十代の半ばで成獣になる──、玄英宮に入った頃からぴたりと成長が止まってしまった。外見が成長しないと中身も成長が|滞《とどこお》るのか、はたまた他者が外見に従って子ども扱いするからなのか、気性のほうもやはり十三のまま、少しも成熟した感がない。ちなみに歳は|夫役《ぶやく》の関係から満で数えるのが習わしである。
「責任ある|御方《おんかた》が、壮年にお入りになって、いまだそのありさまとは。|宰輔《さいほ》といえば王を補佐して民に|仁道《じんどう》を施すのがお役目、臣の中では唯一|公爵位《こうしゃくい》をお持ちになる長身の筆頭、いま少しご身分を自覚していただきたいものです」
「ちゃんと聞いてたってば。|漉水《ろくすい》の堤防だろ? でも、そういうことは主上に言ってもらわないとなー」
 朝士は細く形のいい|眉《まゆ》をぴくりと動かす。色白で|痩身《そうしん》の|優男《やさおとこ》だが、この外見に|騙《だま》されてはならない。氏は|楊《よう》、|字《あざな》は|朱衡《しゅこう》、王自ら下した別字を|無謀《むぼう》という。無謀の字はゆえのないことではない。
「……では、おそれながらお|訊《き》きしますが。その主上はどちらにおいでで?」
「おれに訊くな。関弓に降りて女でも引っかけてるんじゃねぇの?」
 朱衡は柔和な顔に微笑を浮かべた。
「台輔はなぜ朝士の|拙《せつ》めが、漉水の話をさせていただいているのか、お分かりでないようですね?」
「あ、そっか」
 六太はぽんと手を叩く。
「|治水《ちすい》のことは、しかるべき官から言ってもらわないと。おまえの仕事じゃないだろう?」
 朝士は警務法務を司る官、特に諸官の行状を監督するのが務めである。治水工事ならば土地を司る|地官《ちかん》の管轄、少なくとも地を整える|遂人《すいじん》か、さらに形式を言うなら、|地官長《ちかんちょう》もしくは六官をとりまとめる|冢宰《ちょうさい》が奏上するのが筋であろう。
「ええ、わたくしの仕事ではございませんとも。しかしながら、延はこれから雨期、治水が至らねば台輔がただいまお慶びの緑の農地も、ことごとく沈んでしまうのでございます。一刻も早くご裁可をいただかなくてはならないものを、肝心の主上はどちらにおいでなのでございますか?」
「さー?」
「この件に関しまして、今日この時刻をご指示なさったのは他ならぬ主上でございます。責任ある|御方《おんかた》がお約束を|反故《ほご》になさるとは。王は諸官の模範となるべきお方でございますのに」
「あいつはそういう奴なんだってば。ほんと、でたらめなんだもんなー」
「主上は国の|御柱《みはしら》、その大柱が揺らげば国も揺らぎましょう。朝議にもおいでにならない、御政務のお時間にもどちらにおられるか分からない。そんなことで国がたちゆくとでも|思《おぼ》し|召《め》すのですか?」
 六太は上目づかいに朱衡を見上げた。
「そういうことは、|尚隆《しょうりゅう》に言ってほしーんだけど」
 朱衡は再び|柳眉《りゅうび》を震わせて、いきなり書面で卓を叩く。
「──台輔が今月、朝議にいらしたのは何度ですかっ?」
「えーと……」
 六太はじっと手を見て指を折る。
「今日と、こないだと、……それから」
「お教え申しあげれば四度です」
「お前、よく知ってるな」
 朝士は朝議に参加しない。それほど高位の官ではないのである。六太が半分、|呆《あき》れた気分で見上げると、朱衡はたいそう柔和な笑みを浮かべた。
「それはもう、王宮の|端々《はしばし》で諸官が嘆いておりますから。──朝議というのは、本来毎日あるものなのですよ、ご存知ですか?」
「それはー」
「それを三日ごととお決めになったのは主上でございましたね。三日ごとといえば月に十度。もはや月が終わろうというのに、台輔のお出ましがあった朝議がわずかに四度とはどういうわけでございますか?」
「えーと」
「主上におかれてはわずかに一度! 主上も台輔も国の|政《まつりごと》をいかが|思《おぼ》し|召《め》しか!」
 ごつん、と激しい音がした。|露台《ろだい》で椅子が倒れた音である。六太が見ると、いつのまにか遂人の|帷湍《いたん》が控えていたらしい。その帷湍も額に青筋を立てて肩を震わせている。
「どうして、王宮におとなしくしていないんだ、この主従は!」
「帷湍、いつのまに来てたんだー?」
 六太の愛想笑いは|凍《い》てつくような視線でもって迎えられた。
「まったく、この浮かれ者どもが。雁が成り立っているのが不思議だぞ!」
「|大夫《だいぶ》、大夫」
 朱衡が苦心交じりにたしなめたが、帷湍はすでに|踵《きびす》を返している。
「大夫、どちらへ」
「──ひっとらえてくる」
 足音高く出ていった異端を見送って、六太は溜め息をついた。
「あいにく」
 朱衡は|微笑《わら》って六太を見る。
「|拙《せつ》も帷湍ほどではございませんが、たいへん気の短いほうで」
「あ、そお?」
「朝議にはお出ましにならないゆえに、いっこうにご裁可がいただけず、帷湍めがあえて奏上申しあげれば、後日にせよとおっしゃる。今日この時刻をご指定いただいたものの、待てど暮らせどおいでにならない。本来ならば、そういったときにこそ王を補佐するお役目の台輔にお聞き届けいただかなくてはならないものを、その台輔までがうわのそら」
「えーと」
「再度このようなことがございましたら、|拙《せつ》にも覚悟がございます。|畏《おそ》れおおくも主上といえど、台輔といえど、|容赦《ようしゃ》いたしませんのでそのおつもりで」
「あはははは……」
 力なく笑って六太は頭を下げる。
「悪かったです。反省します」
 朱衡はにっこりと笑う。
「苦言を心広くお聞きになる、それはたいへん結構でございます。本当にお分かりいただけましたでしょうか?」
「分かった。ほんと」
 では、と朱衡は|懐《ふところ》から書物を出して六太に向かって差し出した。
「この|太綱《たいこう》の天の巻、一巻には天子と台輔の心得が書いてございます。反省の|証《あかし》として朝議をお休みになったぶんだけ書写なさいませ」
「朱衡ぉ」
「明日までに一巻を六部でございます。──よもや|嫌《いや》とはおっしゃいませんでしょうね?」
「そういうことをしてたら、政務が|滞《とどこお》るんじゃないかなー?」
 上目づかいに見上げた優しげな顔は、けちのつけようのない笑顔を浮かべる。
「いまさら一日滞ったところで、大差はございませんよ」

   3

 |朱衡《しゅこう》は風を受けながら、王宮の道を歩く。内宮から退出したところだった。
 |雁《えん》は|四州《ししゅう》北東の国、寒冷の土地である。冬は北東からの乾いた季節風にさらされて寒く、夏は|黒海《こっかい》から吹きこむ冷たい風にさらされる。季節は夏を経て秋が忍び寄ろうとしている。黒海からの風は日増しに弱くなって、太陽に温められた大地の|温《ぬく》みが大気をも暖めている。夏は涼しく、雨がなく、植物の繁茂には適さないが、そのかわりに秋が長い。ふわふわといつまでも暖かくて、北東からの|条風《きせつふう》が吹き始めると、いきなりのように寒くなるのだ。
 王宮は雲海の上だから、下界の気候とは関係がない。それでもいまはまだ、下界の風もこれと大差ないだろう。これから雁は秋に向かい、秋の終わりにひと月ほどの雨期がきて、雨がやむと条風が吹く。それは|戴国《たいこく》から乾ききった|震撼《しんかん》するような冷気を運んでくるのだ。
「|漉水《ろくすい》か……間に合うといいが……」
 朱衡は雲海の西を見やった。雨期が来るまでに漉水の治水がなるか。
 漉水は|関弓《かんきゅう》のある|靖州《せいしゅう》から黒海沿岸|元州《げんしゅう》に向かって注ぐ大河である。元州には平野部が多い。季節毎に|氾濫《はんらん》を繰り返す漉水が作った|肥沃《ひよく》な平野だった。黒海に面する沿岸部一帯は|梟王《きょうおう》が|堤《つつみ》を切って以来、人の住めない土地になってしまったが、念願の帰国を果たした人々が開拓をはじめて、かなりの数の村落ができていると聞く。元州州侯の手には負えない。有名無実で治水を行う実権がないのだ。現在まだ先帝が任じた州侯は整理されておらず、そのほとんどの実権を取り上げられてしまっている。
 軽く溜め息をついて足を進めていると、ちょうど|帷湍《いたん》が石段を上ってくるのに行き合った。
「──いかがでした」
 朱衡が笑い含みに問うと、帷湍はキッと顔をあげる。
「首根っこを|掴《つか》んで連れ戻してきた。内宮で衣服を改めておられる」
 ならば一緒に|禁門《きんもん》を通って内宮に行き、そこで話をすればよかろうに、この男はわざわざ正門を通って戻ってきたらしい。雲海の上に浮かぶ|玄英宮《げんえいきゅう》には直接出入りできる門がひとつしかない。これを禁門といい、|麓《ふもと》関弓から登る道にある五門を正門という。本来禁門は王と|宰輔《さいほ》しか通行できないのだが、帷湍は禁門を使う特権を|下賜《くだ》されている。なのに、そういうところだけは堅苦しい男である。
「ならば、わたしも戻りましょう。ひと言申しあげねば」
「がっちりとっちめてやれ。──どこにおられたと思う?」
「さて」
「関弓の|妓楼《ぎろう》で|賭博《とばく》に興じて、有り金を巻き上げられたそうだ。借金のかたに乗騎を取られて戻るに戻れず、そのぶん庭掃除をして返すのだと|箒《ほうき》を握っているところを捕まえた」
 朱衡は声をあげて笑った。
「|尚隆《しょうりゅう》さまらしい。──それで借金を立て替えてきたのですか」
「踏み倒すわけにはいかんだろう。だからといって、返すまで下働きをさせられるか。まさか正直に王だと言って、許してやってくれとも言えまい。あれが時刻の王だと知ったら、連中は落胆して|号泣《ごうきゅう》するぞ」
「──でしょうねえ」
 雁は一度滅びたとさえ言われる。それほど荒廃が深かった。新王の|践祚《せんそ》は国民の悲願だった。その悲願がそのありさまでは、本当に|落涙《らくるい》する者もあろう。
「まったくあの、のんき者が」
 王を相手に、これだけ悪態を言ってのける者もいないかもしれない、と朱衡は苦笑した。
 帷湍はもともとは|田猟《でんりょう》といって、人民を管理し、納税のための台帳を整備する官だったが、革命にあたって|遂人《すいじん》に|抜擢《ばってき》された。それも、王自ら|猪突《ちょとつ》という|字《あざな》を下して、あらゆる特権を与えてのことである。帷湍は王の寝所に立ち入り、禁門を使用し、内宮の奥まで騎乗して行くことができ、王の前で平伏しなくてもいい。──だが王を|罵《のの》っていいという特権などはなかったと思うのだが。
「|鷹揚《おうよう》なお方だから、あなたも首が|繋《つな》がっているのでしょう?」
 新王が|玉座《ぎょくざ》について、玄英宮の諸官は新王に慶賀を述べて|拝謁《はいえつ》した。その|誉《ほま》れある祭典のさなかに、帷湍は戸籍を|鷲掴《わしづか》みにし、王の足元に投げ捨てたのである。
 朱衡が言うと、帷湍は|嫌《いや》な顔をした。
「……古い話を持ち出すな」

 ──かつて、天帝は地を開き、十二の国を|興《おこ》した。人を選んで玉座に据えた。これが王、天帝の意を受けて選んだのは|麒麟《きりん》である。
 麒麟は一国に一、揚力甚大の|神獣《しんじゅう》であり、天意を受けて王を選ぶ。その麒麟が生まれるのが世界中央にある五山東岳|蓬山《ほうざん》、自ら王たらんと|恃《たの》む者は蓬山に昇って麒麟に面会する。この麒麟に面会して天意を|諮《はか》ることを|昇山《しょうざん》という。
 ──なぜ、と帷湍は戸籍を玉座の壇上に叩きつけた。
「なぜ|登極《とうきょく》に十四年もかかった。麒麟は六年もあれば王を選べる。貴様がもたもたと昇山せずにいたせいで、八年もの歳月が無駄になった。これはその八年分、関弓の戸籍だ。八年の間にどれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」
 新王登極に浮かれていた場は、一瞬のうちに静まり返った。
 異端は玉座の王を見る。彼はただ興味深そうな表情で、|階《きざはし》の上に投げ捨てられた戸籍と帷湍を見比べていた。
 八つ当たりだったのかもしれない。帷湍はただ、雁の|窮状《きゅうじょう》を王に知っていてほしかった。信じがたいほどの荒廃だった。玉座の埋まった王宮には光があふれていたが、下界には死と荒廃が|蔓延《まんえん》している。誰もが新王さえ|践祚《せんそ》すれば、と望みをつないでいたけれども、帷湍にはそれだけで国が立ち直るとはとうてい信じられなかった。
 無礼な、と死を|賜《たまわ》ることなど覚悟のうえだが、帷湍とて死にたかったわけではけっしてない。梟王の圧政を、王に|背《そむ》かず、道にも背かず、王の不興もかわぬよう、かといって良心に|悖《もと》ることもないよう、それは綱渡りするような気分でかろうじて生き延びてきたのだ。
 新王が践祚した、これで全てがよくなると、官の誰もが言う。だが、すでに起こったことをなくすることは王とてできない。死んだ命は返らない。それを忘れて浮かれている官が|恨《うら》めしかったし、きっと登極した喜びに浮かれているであろう王が恨めしかった。
 これで自分が死んでも、晴れがましい場で起こったこの不快な出来事を王は忘れることができないだろう。諸官は登極早々臣下を|斬《き》る王を見て、梟王の|暴虐《ぼうぎゃく》を思い出し、少しは浮かれ気分をおさめるだろう。根拠もなくめでたいを連発する連中の、胸に落ちる一個の不快な石になるならそれでよかった。
 異端は新王を見る。新王は帷湍を見る。しばらくの間、その場には空気の流れさえ絶えた。|凍《こお》りついて動かない人々の中で、最初に動いたのは新王だった。ふ、と笑って御座を離れ、こだわりもなく戸籍を拾いあげる。軽く|埃《ほこり》を払って帷湍に笑った。
「目を通しておく」
 帷湍は呆然とし、しばらくその男を見つめていた。護衛する|小臣《しょうしん》らにその場を引きずり出され、時の|地官長《ちかんちょう》|大司徒《だいしと》に官籍を|剥奪《はくだつ》された。おとなしく家に帰り、処分を待って謹慎していた。逃げる気にはなれなかったし、兵が門前を固めていたので、そもそもそれはできなかった。
 自ら謹慎すること五日。門を叩いた|勅使《ししゃ》は勅命を|携《たずさ》えていた。いわく、復職を許し遂人に叙すと。呆然としたまま拝謝のために昇殿した帷湍に、猪突猛進なやつだ、と王は笑い、のちに猪突と|字《あざな》を|下賜《くだ》し、今日に至っている。

「──わたしは当時、官席を|賜《たまわ》ったばかりの小官だったけれども、その|噂《うわさ》を聞いてその場に居たかったと心底思ったな」
 朱衡がさもおかしそうに笑うので帷湍は|憮然《ぶぜん》とする。他人にすればさぞ面白い噂話だろうが、帷湍にすれば笑うどころの話ではない。本気で死ぬ覚悟だったのである。
 さすがにその当初は帷湍も王を敬って、|愚痴《ぐち》ひとつ言わないという|敬虔《けいけん》さだったが、あっという間にそれも絶えた。殊勝にしていては身がもたない。|賭博《とばく》で有り金をなくし、政務に戻ってこれない王に対していつまでも頭を下げてばかりいられるものか。
「なんと|懐《ふところ》の広い方だと、感動した自分が憎いぞ、俺は。懐が広いわけじゃない、単にのんき者なんだ、あいつは」
「帷湍殿、口を|慎《つつし》まれたほうがよろしくはないか? いま少しご身分を|弁《わきま》えられて、礼をお忘れにならないほうが|御身《おんみ》のためかと」
「──お前にだけは言われたくないな」
 帷湍は朱衡を見る。朱衡はもともと|春官《しゅんかん》の一、|内史《ないし》の下官だった。王が内史府を巡視したときに、王に対して朱衡は言ったという。
 すでに|謚《おくりな》は用意してある。興王と滅王がそれだ。あなたは雁を|興《おこ》す王になるか、雁を滅ぼす王になるであろう。そのどらちがお好みか、と。
 帷湍が指摘すると、朱衡は軽く笑った。
「なに、|大夫《だいぶ》のまねをしたまで。どうやらそのほうが出世のためのようだったので」
「それは通らんな。あれは|登極《とうきょく》三日目のことだろう。俺はまだ謹慎中だった」
「そうでしたか? いや、寄る年波のせいで物覚えが悪くて」
 お前な、と帷湍は朱衡の済ました顔をねめつけた。彼らはともに若いが、それは外見だけのこと、すでに年波を語ってもおかしくはない実年齢になった。
「そのわたしが|朝士《ちょうし》ですからね。いやはや、なんとも主上はお心が広い」
 ──どっちも|嫌《いや》だな、と王は答えた。
 朱衡の無謀の動機も、帷湍の動機と大差ない。朱衡もやはり、死を|賜《たまわ》る覚悟だった。そもそも朱衡は国官ではなく、国官の内史が|己《おのれ》のために|雇《やと》い入れた|府吏《げかん》、王に向かって直接口をきくことさえ罪に値するのである。怒ってこの場で死を命じるか、それとも。
 見守る朱衡の前で新王は顔をしかめた。
「どちらも断る。そういう|凡百《ぼんぴゃく》の言葉で名づけられたのでは恥ずかしくてしょうがない」
 え、と問い返す朱衡に王はまじまじと視線を向けた。
「史官というのは、その程度の文才で務まるのか? 頼むから、もう少し|洒落《しゃれ》た名前を考えてくれ」
「ええ……あ──はい」
「お前、史官に向いていないのではないのか?」
 そうかもしれません、と恥じ入った朱衡の|許《もと》に|勅使《ししゃ》が来た。よくても解任かと|肚《はら》を|括《くく》っていた朱衡を内史の中級官である|御史《ぎょし》に召し上げ、のちに|秋官《しゅうかん》朝士に任じたのである。

「──俺とお前が側近だからな。ひょっとしたら王は、単に減らず口をたたく奴が好きなだけなんじゃないのか?」
 帷湍の言葉に朱衡は笑う。
「本当に、そうかもしれません」
 笑ってから、朱衡は表情を改めた。道をやってくる足音を聞いたからである。
 やってきたのは|冢宰《ちょうさい》とその|府吏《げかん》、朱衡も帷湍も礼に従って道を|譲《ゆず》り、軽く頭を下げて冢宰らを通す。|俯《うつむ》いた頭上にその声は降ってきた。
「はて、この道は内殿に向かうと思ったが」
 これ、と府吏のひとりが朱衡らに声をかけてきた。
「こんな所で何をしておられる。まさか道に迷われたのか?」
 朱衡も帷湍も返答しない。内殿にまで昇殿を許されている官は限られている。二人の官位では本来、内殿に入ることを許されない。ふたりは王から直々に特権を得ているが、これは破格の待遇なのである。特待を|妬《ねた》んで皮肉を言うものなどいくらでもいる。朱衡も異端もすでに慣れていた。
「これから内殿に向かわれるのか?」
 は、と帷湍が短く返答すると、冢宰らは聞こえよがしに溜め息をついた。
「やれやれ、では、主上は御政務どころではございますまい」
「これからお気に入りとお遊びの時間じゃ」
「お邪魔をしてはお|叱《しか》りがある。まったく、いつになったら御政務にお|就《つ》きになるやら」
「|誑《たぶら》かす下郎がおるからのう」
 |俯《うつむ》いたふたりの前を|嘲笑《ちょうしょう》が通り過ぎる。おそらくは東の|府邸《やくしょ》へ戻るのだろう、引き返す足音が絶えるのを待って帷湍が顔をあげた。建物の間を縫う石畳を見やって低く吐き捨てる。
「……どっちが下郎だ。梟王から位を買った|奸臣《かんしん》どもが」
 朱衡は苦笑した。奸臣という言い方は不当ではない。梟王が道を失い、政務に興味を示さなくなったのをいいことに、官は専横を極めた。あるものは金で官位を買い、そうして支払った以上のものを国庫からかすめ取った。梟王の歓心ほしさに暴虐を|諌《いさ》めるどころか
煽《あお》りたて、みすみす国土を荒廃せしめた。
「皮肉を言うぐらいしか能がない連中だから、よしとしてあげなさい」
「王が遊びほうけているのは、俺たちが|唆《そそのか》しているせいだと思っているのだぞ! あいつが|放蕩者《ほうとうもの》だから俺たちまでが|悪《あ》し|様《ざま》に言われる」
 歯噛みする帷湍に対して、朱衡はなおも苦笑するにとどめた。
「悪し様に言われるのは、しかたのないことでしょうねえ」
 帷湍は遂人、位で言えばたかだか|中大夫《ちゅうだいぶ》にすぎない。冢宰は|候《こう》、四位も下の遂人ふぜいが様々の特権を与えられ、冢宰の自分が王に面会するのにもいちいち取り次ぎを頼まなくてはならないのだから、腹に据えかねて当然だろう。朱衡などは帷湍のさらに下、|下大夫《げだいぶ》にすぎない。
「しかたないですます気か。あのうつけ者をなんとかしろ!」
「わたしに言われても困ります」
「だいたい、|成笙《せいしょう》が悪い。いちばん近くにいるんだから、首根っこ捕まえて|玉座《ぎょくざ》に|括《くく》りつけておけばいいんだ」
 王の身辺警護の者にまで悪態をつく帷湍を、朱衡はやや|呆《あき》れた気分で見やった。
「そんなに腹を立てるほどのことですか?」
「お前は腹が立たんのか。王に遊興をすすめる|賊臣《ぞくしん》のように言われているのだぞ! あげくには|龍陽《りゅうよう》の|寵《ちょう》などと!」[#入力者注:「龍火の寵」とは男の家臣を愛妾として可愛がること]
「それは、お疲れさまです」
「|莫迦野郎《ばかやろう》! お前がそう言われているんだ!」
 朱衡は笑って、次いで声を低める。
「口さがない連中には言わせておきなさい。そろそろ主上は諸官の整理を考えておられます」
 帷湍は石段を上る足を止めた。
「いよいよか」
「内政はほぼ落ちついて、行くべき方向は定まっています。道は敷かれた。あとはただ|輛《くるま》を走らせるだけです。これまでに諸官整理にまでは手が回らなかったけれど、どうやら諸侯諸官をすげ替えてもいい時期にきたようです」
 州侯および諸官を任じたのは梟王である。新王|践祚《せんそ》の際にこれを全部|罷免《ひめん》し、新官を登用してもよかったが、それに時間を|割《さ》かれることを|惜《お》しんで、あえてそのまま残してある。州侯の実権だけは制限し、各州に|牧伯《ぼくはく》を置いて監督させ、官のほうは側近だけを厳選してしのいできたが、いつまでも梟王のもとで|阿諛《あゆ》と追従によって安逸を|貪《むさぼ》り、民を|虐《しいた》げることに荷担していた連中をそのままにはできない。
「朝廷は荒れます。罷免されずにすんだと多かを|括《くく》っていた連中は、あわてふためいて暗躍を再開するでしょう。どこでどう足元をすくわれるやら分からない。しばらくは|愚痴《ぐち》を控えたほうが」
「……二十年か。よく|保《も》った。あんな連中でも多少は心を入れ替えたらしい」
「なに、国庫から利をくすねようにも、くすねる財がなかっただけですよ。ですが、最近妙な動きをする官が増えましたね」
「冬の間、土の中にもぐってやり過ごしていた連中が、ようやく冬を過ぎて動き出したというわけだな」
 帷湍は付近の建物に目をやった。
「長い冬だったが……」
 雁国民悲願であった新王|登極《とうきょく》のあの頃、まだ玄英宮は金銀の輝く壮麗な|宮城《きゅうじょう》だった。いまのこの宮には華美なところがない。|幽玄《ゆうげん》の宮などと言われているが、王が全ての装飾、金銀や財宝を──それこそ|玉座《ぎょくざ》の石まで──はがして売り払ってしまった。それほど雁は|困窮《こんきゅう》していたのである。建物の数も半分近くに減った。王が解体し、材木から石材に至るまで売り払ってしまったのだ。関弓山の峰に続く屋根の黒色だけが、あの頃と変わっていない。
 王宮は初代の王が天帝から|賜《たまわ》ったという。ゆえに|憚《はばか》り、歴代の王は王宮に手を加えることはしても、取り壊したりはしてない。王朝の歴史そのものである建物の、装飾を身ぐるみはいだのみならず、解体して売り払うというのだから官の|狼狽《ろうばい》はただごとではなかった。
 やれ、のひと言で命じた王は、梟王の元で国庫の富をかすめ取り、私服を肥やした連中を放置した。諸侯諸官を解任し、その私財を押収することは可能だったが、あえてそれをしなかった。そんなことをしている余裕さえなかったのだ。荒廃した国土から収穫があげられるよう、地を治めるほうが先だった。
 |田畝《でんぱ》は|焦土《しょうど》と化した。そこに|鍬《くわ》を入れても、耕した民の生活を支えられるほどの実りがあるようになるまでに二十年がかかった。王宮の|御物《ぎょぶつ》を他国に売り払い、蔵の中の物という物、それこそ兵の小太刀にいたるまでを売り払って、かろうじて食いつないできた。
 ──預けておいたと思えば良い。ああいった連中は|貯《た》めこむことに熱心だから、さほど損失はないだろう。派手に使っている者だけを取り締まれ。時が来れば一気に返済してもらう。
 王はそういった。その時が来たのだ。
「のんき者だが、|莫迦ではない」
 帷湍が低く言うと、朱衡は軽く笑った。
「有能だがでたらめだ、ぐらいにしておいてあげなさい」

   4

 その有能だがでたらめな|雁国王《えんこくおう》は、内宮の私室で四人の人間にこんこんと|諭《さと》される羽目になった。
「……お前たちの言い分はわかった」
 |尚隆《しょうりゅう》は周囲の四人を見比べる。|帷湍《いたん》は|憮然《ぶぜん》として自王をねめつけた。
「分かっただけか」
「反省した」
「俺はあれほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだぞ。この|恨《うら》み、|滅多《めった》なことでは忘れんからな」
「まったく、まったく」
 帷湍の背後からしたりという|風情《ふぜい》の合いの手があがったが、これには帷湍は構わない。本当に、と|朱衡《しゅこう》が溜め息をついた。
「主上にあってはご自身のお立場をいかが|思《おぼ》し|召《め》しなのですか。国の帆たる王がそれで、いかにして諸官を治めるおつもりです。模範となるべき|御方《おんかた》が、このありさまでは。|拙《せつ》とて民に顔向けができません」
「だろう、だろう」
 まったくの無表情で|滅多《めった》に開かぬ口を開いた男がいる。
「|呆《あき》れ果てて開いた口が|塞《ふさ》がらぬ。こんな愚王に使われる|己《おのれ》までが|不甲斐《ふがい》ない」
「|酔狂《すいきょう》、お前まで小言か?」
 |字《あざな》は酔狂、別字を|成笙《せいしょう》という。|褐色《かっしょく》の肌をもつ|痩身《そうしん》の小柄な若い男だが、軍事を司る|司馬《しば》の官、特に王の身辺を警護する|小臣《しょうしん》の長、|大僕《だいぼく》である。|梟王《きょうおう》によって禁軍将軍に登用され、知略に優れ武道に|秀《ひい》でること比類なしと言われた。梟王に|諫言《かんげん》して捕らえられたが、あの|昏帝《こんてい》でさえ殺すことを惜しんで幽閉させた。梟王が|弊《たお》れてのち諸官が|石牢《いしろう》から出そうとしたが、本人は王によって投獄されたのだから、王の|赦免《しゃめん》がなければ出ないという。そのまま新帝によって赦免されるまで錠の下りてもいない牢に五十年近く居座りつづけた剛の者である。
「……そういう、くだらない名を勝手につけないでいただきたい」
「気にいらんか?」
「あたりまえです」
 |憮然《ぶぜん》とした成笙を、帷湍は|恨《うら》めしげに見た。
「お前はまだましだ。俺なんぞ、|猪突《ちょとつ》だぞ」
 王から|直々《じきじき》に字を|下賜《くだ》されるといえば、これ以上の名誉はないが、その名誉の中身が猪突だの酔狂だの|無謀《むぼう》だのでは、ありがたみなどありはしない。さらに言えば、尚隆が|麒麟《きりん》である|宰輔《さいほ》|六太《ろくた》に下した字は|馬鹿《ばか》という。馬と鹿の間のような生き物だからいいだろう、と尚隆はそう言ってひとり悦に入っていたが、認知するものがいようはずもないのである。
 まったく、と帷湍は苦々しげな顔をする。
「|軽佻浮薄《けいちょうふはく》とは、こいつのことを言うのだ」
「しかり、しかり」
 今度は、三者がいっせいに背後を振り返った。
「|台輔《たいほ》も同罪です!」
 いきなり冷たい視線を浴びて、無責任に合いの手を入れていた六太は首をすくめる。
「おれは別に、|賭事《かけごと》なんてしてないぞっ」
「では、朝議をお休みになった間、どちらにおいでだったのか、お聞かせ願いましょう」
 朱衡に迫られて、六太は愛想笑いを浮かべた。
「──視察。国がどのていど復興しているか、とかだな」
「では、その成果をお聞かせくださいませ」
「えーと……」
「|主《あるじ》を裏切るからだ」
 ぼそりと言われて六太は自王を見る。
「そもそもお前が遊び歩いているからだろーがっ。おれまで小言を言われてんだぞ、冗談じゃねえや」
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只看该作者 1楼 发表于: 2005-08-15
好强~~居然有电子版,楼主不是自己打的吧:)
多谢楼主,收下了:)
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只看该作者 2楼 发表于: 2005-08-16
大変お疲れ様でした。ありがとうございます。

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只看该作者 3楼 发表于: 2005-08-17
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